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絵に描いた餅


日本語には時々素晴らしい言葉があります。「絵に描いた餅」という言葉もその一つです。私は宗教というのは絵に描いた餅だと考えています。

辞書を引くと「絵に描いた餅」とは「役に立たぬ物事」とされています(新村出編、広辞苑、第四版、岩波書店)。けれども宗教を意味する餅の絵は、まったく役に立たないわけではありません。この餅の絵というのは、餅を食べておいしいと思った人が、そのことを他の人に知らせるために、こんな食べ物があるぞ、といって描いたものなのです。みんなにも、餅を食べさせたいと思って描いた絵なのです。他の人たちは餅を見たことも食べたこともなかったからです。

餅を食べた人が何人もいたので、いろいろな餅の絵ができました。他の人たちは、その絵を見たら、そのような食べ物を探して食べるように努力するべきでした。けれども、人々は、その絵を大切にしました。きれいに飾ってガラスのケースに入れ、家宝にしました。餅の絵を見ることに功徳があると思うようになりました。大勢の人が絵を見るためにやってきました。やがて、どの絵が一番正しい絵か、どの絵が一番由緒ある絵かということで争いをはじめました。

けれども、どんなに由緒正しい絵でも、どんなに上手に描かれた絵でも、絵は絵です。絵を食べることはできません。絵をなめて見ても、おいしくもなければ、栄養にもなりません。私たちは餅を探して食べるべきなのです。絵は何でもかまいません。鉛筆で描いた漫画のような殴り書きでも、油絵で克明に描いた豪華な絵でも同じことです。私たちは絵を食べるわけではないのです。

では、その餅はどこに行ったら手に入るのでしょうか。どこに売っているのでしょうか。
どこにも行く必要はありません。それはあなたの心の中にあります。あなたの心の奥の奥、心の裏側に突き抜けてしまったところに、あなただけのための餅屋があります。代金はただです。一銭もいりません。他のところで手に入る餅はすべて偽物です。

このことがわかったら、餅の絵はすべて忘れてしまって結構です。あなたの心の奥を訪ねる旅に出かけてください。はじめのうちは、心の中の雑念で惑わされます。エゴが偽物の餅を食べさせようとするかも知れません。本物だと思って持って帰ってきたら、偽物とわかることがあるかも知れません。そしたら、また出かけてください。何度でも出かけて、本物の餅を探してください。

本物の餅は、食べた瞬間にわかります。それはかぐや姫が食べた天人の食べ物のようなものです。それを食べると、いままで確固たる現実だと思って住んでいた物質世界が、本当は幻想の世界であるということがわかります。そして、今まで幻想だと思っていた霊的世界が、実は確固たる現実であるということがわかってきます。あなたは、霊性の目で世界を見るようになるのです。

餅とは何でしょうか。それは神そのものです。私たちは、神を食べることができるものであると知らなければなりません。神を信じるとは、神に関する観念を本当だと思うことではありません。神を食べることです。神を体と心に迎え入れることです。
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