魂のインターネット

霊性の回復


従来の大広間型世界像では、心の外側には物質宇宙があると考え、それを「外界」と呼んでいました。けれども物質宇宙は、本当は心の中のスクリーンあるいはシミュレーターで体験する仮想の世界です。本当に心の外にあるのは神がつくった実在の世界すなわち霊的世界です。これは「神そのもの」です。なぜなら霊的世界は、第2部「神と人間」で述べるように、神の意識の中にある神の思考だからです。私たち人間は、一人一人が神の意識の中に存在し、神に包まれて存在している不滅の存在です。

それにもかかわらず、私たちは現在、自分が霊的存在であるとも、神とつながっているとも感じていません。さまざまな宗教も、神とつながること、すなわち悟りや覚醒が必要であると説きます。人間がいまは神とつながっていないと感じているからです。英語のreligion(宗教)という言葉は「つなぎ戻す」という意味です。人間を神と再びつなぐのが宗教なのです。霊性回復とは、人間が本当の外界である霊的世界すなわち神とつながることです。

人間が現在神とつながっていないと感じるのは、インターネット型世界像の中に掲げた図2に示されているように、人間の心と外界がつながる通路の前に潜在意識という厚い層があって、神のエネルギーが私たちの心の中に入ってくるのを妨げているからです。それはちょうど水が流れる水路のようなものです。水路そのものはつながっていますが、そこにいろいろなガラクタが詰め込まれているので、水が流れなくなっているのです。

潜在意識というのは、人間が自分の意識の一部を「これは私の意識ではない」といって切り離した部分です。霊性とは、神と自分のすべてを透明に意識している状態ですが、人間は、地球世界ゲームの前半で神を忘れ自分の霊性を忘れるために、自分の意識の中に、自分の意識から切り離して自分でコントロールしない部分をたくさんつくり出したのです。意識の一部を切り離したといっても、それが消えてなくなるわけではありません。それはやはり人間の心の中にあって、心の奥に積み上げられてたまって行きます。そして、それがやがて人間の顕在意識と神の意識とがつながる通路を塞いでしまったのです。今では人間は、自分の心の奥にそのような通路があることさえ忘れています。

霊性回復というのは、そのことを思い出し、通路を塞いでいる潜在意識の層を取り除いて、神とのつながりを回復することです。

図4を見てください。これは霊性回復の状態を表した図です。心の中と外がつながっています。これが、人間が神と一体になった状態であり、仏教では「悟り」、その他の宗教で「覚醒」などと呼ばれている状態です。聖書の中でイエスは神とつながった状態を「私が父の中におり、父が私の中におられる」(聖書、ヨハネによる福音書、十四章十一節)と表現しました。イエスが父と呼んでいるのは神のことです。図4はまさにそのような状態を描いています。この状態になると、人間は神と同じ目で物事を見、神と同じ耳で聞き、神と同じ心で考え、神と同じ意志を持ちます。霊的存在である人間は、本来このような状態でいるようにつくられているのです。

図4は最終的な姿を描いていますから潜在意識が全部なくなっていますが、神とのつながりを回復するために、潜在意識が全部なくなるまで待たなければならないわけではありません。潜在意識が残っているままでも神との部分的あるいは一時的なつながりを体験することはできます。多くの宗教がそのための方法を教えています。キリスト教なら祈りや黙想、仏教なら念仏や座禅、その他の宗教では瞑想などと呼ぶさまざまな方法があります。

これらは一言でいえば、顕在意識の中に描かれている矢印の向きをひっくり返すことです。私たち人間の顕在意識はいつも、外界だと考えている仮想体験スクリーンの方を向いています。いつも注意がそちらにひきつけられているのです。そのため、潜在意識はまるで自分の心の後ろの方に隠されているように感じます。神とのつながりを体験するには、この顕在意識の注意の向きを180度ひっくり返してください。そうすると潜在意識が目の前にあることになります。その向こう側に神とつながる通路があります。神を太陽にたとえれば潜在意識は雲のようなものです。その向こうに神の光があります。光を雲がさえぎっているのです。その様子を心に思い描き、その雲の向こうにある光に注意を向けてください。雲の中に何があるかを気にせずに、ただひたすら神の光に出会うことを求めてください。これが祈りです。祈りというのは神に願い事をすることではありません。神そのものを求めることです。仏教で念仏というのは「仏を思う」と書きます。「ただただ、仏様に会いたい」という一心を保ちつづけることが念仏です。日常の生活の中で絶え間なくこのような心を持ち続ければ、いつの日か、心の内に阿弥陀様の光を感じる時がきます。それは雲の切れ目から差し込む太陽の光のようなものです。もともと阿弥陀仏という名前は無量光仏とも書かれ、サンスクリット語で「光」を意味しているのです。多くの宗教で神は光にたとえられます。もしほんのわずかでも心の奥にこの光を感じることができれば、雲の向こうに確かに光があるという確信が得られ、さらに潜在意識をクリアにして、もっと大きく、もっと強く神とつながりたいという意欲がわいてくるでしょう。

やがていつの日か、至福の時が訪れます。心の中が晴れ渡り、青空に太陽が輝くように私たちの心が神の光によって満たされるときがきます、それが霊性の回復です。
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