魂のインターネット

大人の童話1 エデンの園の地下洞窟


昔、神様の家の庭で神の子たちが遊んでいました。そこはエデンの園と呼んでもいいのかも知れません。それは広い広いお庭でした。何しろ、私たちが生きているこの宇宙全体よりももっと広いのですから。

るとき神の子たちは、庭の片隅に地下の洞窟があるのを発見しました。
 「わあ、おもしろそうだ。入ってみよう。」
と、一人の神の子が言いました。
 「でもなんだかこわそうだなあ。」
もう一人の神の子が言いました。
 「神様に聞いてみなくちゃ。」
と三人目の神の子が言いました。すると、ちょうどその声に答えるように、神様の声が聞こえました。
 「こどもたちよ、その洞窟に入るのはやめなさい。そこに入るには、おまえたちは幼すぎるのだ。おまえたちが入れば、すぐに出口を見失って、閉じ込められてしまうだろう。もうすこし大人になってからにしなさい。」

神様の言葉を聞いて洞窟に入るのをやめた神の子たちも大勢いました。けれども、元気がよくて冒険好きで無鉄砲で、そして少しばかり自信過剰な神の子たちが、神様の制止を無視して洞窟の中に入って行きました。

神様の言ったことは嘘ではありませんでした。洞窟に入って行った神の子たちは、あっという間に出口を見失ってしまったのです。けれども洞窟に入った神の子たちは、はじめそのことに気づきませんでした。地上のお庭にはないはじめての景色や体験にわくわくして、洞窟の中を探検して回り、遊んで回りました。

そのうちに、神の子たちは不思議な気分になってきました。今までに経験したことのないいやな感じです。神の子たちははじめて「疲れる」という体験をしたのです。おなかもすいてきました。眠たくなってきました。こんなことは、神様の家の庭で遊んでいたときには、かつてなかったことです。神様の庭には光が満ちあふれていました。あらゆるものが光を放っていました。空も風も空気も水も、木々の葉っぱも小鳥たちも動物たちも、足元の石ころさえも、みんな美しい光を放っていました。そしてその光を浴びてさえいれば、神の子たちはどんなに遊び回っても、疲れることもおなかがすくこともなかったのです。けれども洞窟の中には、神様の庭と同じように空も風も水も木々もありましたが、そこには満ちあふれる神の光がありません。もはや神の子たちのエネルギーを光が供給してくれることはなかったのです。

「元のお庭に帰ろう。」
神の子たちはそう思いました。そして、このときはじめて、自分たちが道に迷ったことに気づいたのです。どこを探しても出口は見つかりません。自分たちがどこからこの洞窟に入ってきたのか、まったくわからなくなっていたのでした。神の子たちは「その中に入ればおまえたちは出口を見失って閉じ込められるだろう」という神様の言葉を思い出して後悔しました。一生懸命出口を探しました。あっちじゃないか、こっちじゃないか、と歩き回りました。けれども、どうしても出口を見つけることはできませんでした。

そのうちにも、疲れはだんだんひどくなり、おなかもすいて、体は思うように動かなくなってきます。ついに神の子たちはあきらめて、とりあえず水のわきでる泉や川のほとりに集落をつくり、住みつくことにしました。水を飲めば、神様の庭で光を浴びた時のようにすこし元気が出ることがわかったのです。食べ物を食べることも覚えました。ぐっすり眠ると体の疲れが回復することも知りました。このようにして、神の子たちは次第に人間のような生活をするようになっていきました。

眠ると疲れが一時的に回復しますが、何度も何度もそれを繰り返しているうちに、やがて体はぼろぼろになり、使いものにならなくなってしまいます。ついに一人の神の子が使いものにならなくなった体を脱ぎ捨てました。このようにして、神の子たちははじめて「死」というものを体験するようになったのです。体を脱ぎ捨てたからといって、洞窟から出られるわけではありません。体を脱ぎ捨てた神の子たちは、目に見えない姿で洞窟の中をさまよっていたのですが、やがて男と女がいっしょになれば新しい体をつくることができることが発見されました。体を失ってさまよっていた神の子たちは、こうしてできた新しい体に入り込んで、新しい生活をはじめるようになりました。ところが困ったことが起こりました。新しい体に入り込んだとたんに、それまで持っていた記憶を全部失ってしまうのです。新しい体に入ると、まったくのゼロからはじめなくてはならないのでした。神の子たちが洞窟に入ってきたときに持っていた神の庭の記憶は、急速に失われていきました。たまにだれか思い出す人がいても、もうだれもそれを信じませんでした。単なる伝説か、夢の話だとしか思えなくなってしまったのです。
 

おわかりのように、この話は現在の私たち、人間の姿を描いたものです。もちろんこれは真実ではありません。単なるたとえ話です。本当の真実はどんな言葉をもってしても表現することはできません。私たちは数多くのたとえ話によって、本当の真実を感じ取る以外に方法はないのです。

この話の中には、いくつかの重要な視点が織り込まれています。

第一のポイントは、罪と罰についてです。私たちが神の制止をきかなかったというのは事実です。それを罪と呼びたければ呼んでもいいでしょう。けれども、私たちが洞窟の中に閉じ込められたのは、その罪に対して神が罰を与えたためではありません。神は「おまえたちがそこに入れば出口を見失って閉じ込められるだろう」と警告しました。そして、人間たちはそれを無視して洞窟に入り、その結果として神様の警告どおりに閉じ込められてしまったのです。創世記には、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない、食べると必ず死んでしまう。」(聖書、創世記、2章17節)と神が警告されたことが記されています。それを無視して木の実を食べた人類は死を経験するようになりました。パウロのいうように「罪の支払う報酬は死である」(聖書、ローマの信徒への手紙、6章23三節)というのは真実です。けれどもこれは神の罰ではありません。

神は人間に罰を与えることはありません。同じように、神は人間に褒美を与えることもありません。罰と褒美は対になっている同種の観念です。いずれも、ある行為に対する評価とその対価という観念から成り立っています。これはきわめて人間的な観念です。キリスト教では「行いによらずに信仰によって救われる」といいます(聖書、ガラテヤの信徒への手紙、2章16節)。けれども、もしも救いが「よい信仰」に対するご褒美であると考えるならば、それは行いによって救われるという考えと同じことです。行いによって救われるという観念が誤っているのは、救いが何かの対価として与えられるというところなのです。行いの対価であろうが、信仰の対価であろうが、同じことです。信仰によって救われるという言葉が本当には何を意味するのか、後で触れるつもりです。

第二の点は、地下の洞窟が神様の家の庭にあるという点です。私たちは神様から遠く切り離された世界、あるいは神様のいない世界に住んでいるかのように見えますが、決してそうではありません。私たちは神の膝元から離れたことはなく、これからも決して離れることはないでしょう。神は、地下の洞窟の中で何が起こり、私たちが何に苦しんでいるかも、すべて知っておられます。なぜなら、その洞窟をつくったのは神ご自身だからです。私たちは決して神から見捨てられているわけではありません。

第三の点は、神の子は「死」を経験するとしても、決して失われたり消滅したりすることはないということです。使い古された肉体を脱ぎ捨てたとしても、記憶を失ったとしても、神の子としての存在がそこでなくなるわけではありません。肉体があってもなくても、記憶が続いていてもいなくても、神の子は生き続けています。そして、いつの日か、再び神の家の庭に戻ることができたときには、失われたと思っていた記憶も含め、すべてのことを思い出すでしょう。
 
さて、神様は洞窟に閉じ込められた神の子たちを放っておいたわけではありませんでした。
神様は洞窟の外から特殊な電波で洞窟の中の神の子たちに呼びかけました。そして、出口を見出す方法を教えようとしました。電波に感じた神の子もいました。けれども、ほかの神の子たちは電波を感じた神の子たちの言うことを信じませんでした。

次に神様は、独特の方法で洞窟の中に何人もの使者を送り込み、出口を教えようとしました。けれども、光のエネルギーの欠乏に悩み、記憶を失って錯乱状態に陥っている神の子たちは、使者の言葉を正しく受け取ることができませんでした。ある神の子たちは、使者のひとりが自分を救ってくれるだろうと考え、その人に盲目的について行きました。けれどもそのような方法では出口に連れて行ってもらうことはできないのです。またある神の子たちは、使者が何人もきたので、どの使者の言葉が本当かということで仲間割れを起こしました。
 
なぜ神様はまわりくどい方法ばかり取るのでしょうか。なぜ洞窟の出口をあけて、閉じ込められている神の子たちを救出してやらないのでしょうか。

それは神様が、それをすることが何を意味するかを知っておられるからです。西洋に「病気は治ったが患者は死んだ」ということわざがあります。もし神様が力ずくで神の子たちを洞窟から連れ出したなら、神の子たちはそのときこそ永遠に消滅してしまうでしょう。それは神の子たちの本質そのものを否定することだからです。

旧約聖書の創世記に「人間は神に似せてつくられた」(聖書、創世記、一章二七節)という言葉が出てきます。神の本質とは何でしょうか。神の最も神らしいところは何でしょうか。それは、神が何者によってもつくられなかったというところです。自らの自発性のみによって存在するという点です。神に似せてつくられた神の子たちの本質もここにあります。神の子たちは、神によってつくられたにもかかわらず、自らの自発性のみによって存在し、自らを自らが規定していくものとしてつくられたのです。神の子たちはあくまで自発的に洞窟を出て行かなければなりません。神様にできることはその道を教えることだけです。

このことは同時に、神様から見たとき、神の子たちが神様の制止を無視して洞窟に入って行ったのは、罪ではないということを示しています。なぜならこのことは、神の子たちの自発性を示しているからです。それは神の子たちの本質なのです。もちろん、自発的に神様の制止に従った神の子たちも本質に従って行動したのです。神の子たちがその本質に従って行動している限り、何をしようとそれは罪ではありません。ただ神様は、神の子たちのいまの力でこの洞窟に入って行ったとき、何が起こるかを知っておられました。それで、まだ早い、と忠告されたのです。けれども冒険をするのもしないのも神の子の権利です。

ところで、この洞窟というのは何でしょうか。神の家の庭になぜそんなものがあるのでしょうか。そしてその出口はどこにあるのでしょうか。

これは魔法の洞窟です。外から見れば入り口がありますが、中に入ったとたんに入り口はふさがり、どこにも出口はなくなってしまうのです。

この洞窟の名は「理性による合理的思考」といいます。合理的思考はそれだけで完結した論理の体系です。理性にしたがって思考する限り、この論理体系から脱出することはできません。それどころか、理性は脱出する必要すら認めないでしょう。この世界は、それだけで完結した、つまりそれ以外のものを必要としない完全な世界だからです。神の子たちが、合理的思考による判断を神の声より上に置いた時、それが善悪を知る木の実を食べた瞬間です。地下の洞窟に足を踏み入れた瞬間です。あっという間に入り口はふさがり、神の子たちは魅惑的な合理性の世界のとらわれ人になってしまいました。

この洞窟には出口はありません。けれども、出て行く手段がないわけではありません。その手段に従えば、出口はどこにでもあります。その手段に対しては、洞窟の壁自体が壁の役割をしなくなるのです。洞窟はどこからでも出入り自由になります。その手段とは「信仰」です。これは神が洞窟の外から電波を使って呼びかけておられる声を聴き、それに従って行動することです。神の声は私たちには直感として現れます。信仰とは「信じる」ことではありません。直感に従って歩むこと、それが信仰です。残念ながら、私たちは直感を重視しなくなってから長い年月がたっているため、本当の直感を経験したことがほとんどありません。私たちがこれぞ直感と思うものですら、本物でない可能性もあるのです。けれども、これは失敗と練習を積み重ねて、本当の直感に対する感性を高めて行くより仕方がありません。

直感は理性の目にはとても強固な壁と思われるところに向かって突き進むように言うことがあります。目の前にある壁に恐怖して立ち止まってしまえば、外に出ることはできません。けれども、本当の直感には、世界が透明になったかのように見える深い理解が伴っています。そのことを見落とさなければ恐怖することはないでしょう。声の言うとおりにすれば、不思議なことに壁をすり抜けて外へ出て行くことができるのです。

一人の人が通り抜けたからといって、そこに出口があるわけではありません。他の人が慌てて同じところから出ようとしても、壁にぶつかるだけです。一人一人に違う場所があるのです。だれもひとに尋ねることはできません。だれもひとに教えることはできません。一人一人が自分で神にきかなければならないのです。神様がはじめに「おまえたちは幼すぎる」といわれたのはこのことなのです。もし洞窟に入った神の子たちが、どんな状況になっても神の声にきくことを忘れないほど信仰に熟達していたなら、洞窟に閉じ込められることはなかったでしょう。それどころか、洞窟は洞窟にすら見えなかったでしょう。なぜなら、信仰によって生きるものにとっては、この洞窟はどこからでも出入り自由だからです。神の家の庭にあったこの不思議な洞窟は、それが洞窟と見えているあいだは入ってはならないものだったのです。

それにしても、これは大冒険でした。神様は警告はしましたが力ずくで止めることはしませんでした。なぜなら、冒険したければするのが神の子の本質だからです。冒険すれば困難や危険に出会います。けれども、究極的には、どんな困難があっても神の子たちにとって克服できないものはありません。何ものも失われるものはないことを神様はご存知でした。だからこそ、神の子たちが冒険をするままに任せておかれたのです。

私たちは、いつの日か、神の庭に帰るときがくるでしょう。そのとき私たちは神の子の仲間たちの英雄になるでしょう。なぜなら、私たちは仲間たちのだれもやったことがないような大冒険をやってのけたからです。私たちはきっと得意になって話して聞かせるでしょう。その実、私たちがいちばん苦しくて、弱りきって、混乱と絶望のどん底にあったとき、イエスさまがものすごいドラマを持って洞窟の中を訪れ、私たちの固定観念を打ち砕き、神の声に耳を傾けるようにと、私たちの目を覚まさせてくださったことなど、そっとどこかへ隠しておいて・・・。それを横で見ながら、イエスさまはそっとつぶやかれることでしょう。「冒険をしたわりには成長してないなあ」と。
inserted by FC2 system