魂のインターネット

道徳の根拠


私たち人間は本性的に何か善なるものと悪なるものを識別する傾向を持っており、道徳や倫理を確立したい要求を持っています。またさまざまな思想や宗教が善悪に関わる戒めを伝えています。けれども、あらたまって道徳の根拠はどこにあるのかと問われると、はっきりした答えを持っていないというのが実情ではないでしょうか。

人間は神の意識の中に存在する霊的存在であり、自分の心の中のスクリーンにさまざまなドラマをつくり出してそれを自ら体験する「体験者」です。スクリーンの中の世界は、霊的存在から見れば、私たちがパソコンの画面につくり出すバーチャル・リアリティと同じような仮想の世界であり、その中で体験するすべての出来事も仮想の出来事です。現在私たちが体験している物質世界は、このスクリーンの中につくられた仮想の世界です。したがって、そこでどのようなことを体験しようとも、そのことによって神から責められることはありません。むしろ神はすべてを体験するために体験者を生み出したのであり、たとえそれが人間の判断基準から見れば悪と思われるものであったとしても、それを体験することに何の問題もありません。もしも神が「それは問題だ」と考えているとしたら、それは決して体験することはできないでしょう。なぜなら神が拒否するものは、神の意識の中には存在し得ないからです。人間が考えるのと同じ「善悪」の選別というものは本来神の意識の中にはないのです。

それにもかかわらず人間が道徳に関する根強い欲求を持っているのは、地球世界ゲームが現在霊性への帰還の段階にあるということと無関係ではありません。私たち人間は、地球世界ゲームという霊性回復ゲームに参加し、まず最初の段階で霊性を忘れることをしました。その結果、私たちの心は、肉体としての人間の自動操縦装置であるエゴと、管理責任を放棄した部分である潜在意識だけになってしまい、意識的な自己制御というものをほとんど失ってしまったのです。

そこから、霊性回復ゲームの後半が始まりました。私たちはいったん放棄したすべての自己制御を取り戻し、自動操縦装置であるエゴに任せる部分を次第に減らして、最終的には心の中のすべてを自分の意識的制御の元に取り返さなければならないのです。霊性を回復するとは、潜在意識のすべてをクリアにし、捨てるべきものを捨て、代わりに神の光を取り入れ、神と一体になった意識状態に戻ることです。この状態には闇というものはありません。善と悪、光と闇の両方を経験できるのは仮想世界の中だけです。したがって、仮想世界から脱出して霊性の世界へ戻ろうとするときには、光と闇の交錯する世界から、光だけの世界への強い指向性が生まれます。これが私たちが感じる道徳への強い指向性の根源なのです。

霊性回復ゲームの前半が終わり、人間がエゴによる自己保存本能にしたがって走り回る肉体だけの存在になってしまったとき、ゲームの後半である霊性への帰還の旅が始まりました。

それは、まず私たちの心の奥の方から、霊性回復を促すかすかな衝動を送り込むところからはじめられました。心の奥の方からくる衝動というのは、潜在意識の層を突き抜けたさらに外側の神の領域からくる霊的な信号です。それは非常に弱いかすかな刺激として人間の心に送りこまれます。それは潜在意識の層にたやすくさえぎられ、エゴの抵抗に会うとたちまちかき消されてしまうような弱い信号です。なぜそのように弱い信号であるかというと、これがあまり強ければ一人一人の心の自主性を破壊してしまうことになるからです。神からくる霊性回復への促しは、あくまで静かなひそやかなささやきとして人間の心に伝えられます。けれども、それが人間の心に柔らかな方向性を与えます。私たちが、自分自身の心の中でさまざまな抵抗に会いながらも、一方で道徳や愛への強い憧れを捨てきれないのはそのためです。

一方、仮想世界の中における外面的な変化という面では、それはまず、社会の中における力による支配から始まりました。旧約聖書には、王を持たなかったユダヤ民族が王を与えてくれと神に願ったため、神が王を選んで与えたという記事が出てきます。王による支配にはよい面も悪い面もあります。けれども、これを霊性回復ゲームという立場から見るならば、これはまず物質的肉体的な力によって社会秩序を実現し、自動操縦装置であるエゴに外圧による制約を与えるものだったのです。

次には、この外圧による規制を内面的なものに変えるために、道徳律が教えられました。旧約聖書にある有名な十戒(他の神を拝むな、偶像をつくるな、神の名をみだりに唱えるな、安息日を守れ、父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、他人のものをほしがるな)はその代表的なものです(聖書、創世記、20章)。仏教においても、在俗の信者の守るべき戒律として五戒すなわち不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒が与えられています(岩波仏教辞典、岩波書店)。十戒と共通なところの多いのがわかります。善悪を判断し身を慎む、これがエゴに対する規制の第二段階です。そして、これらの教えは、自動操縦装置であるエゴの判断基準のほかに、もっと高いレベルの判断基準があることを教えます。それは霊的世界における判断基準です。霊的世界における判断基準は、自己保存だけを目的としたエゴの判断基準とは大きく異なっています。エゴは肉体の快適さと存続だけが究極の目的ですが、霊的世界の判断基準はそうではありません。それを知ることによって、私たちの意識はエゴよりも大きく拡大していきます。エゴと潜在意識しかなかった私たちの心に、第三の部分、私たちの自己責任を果たす高次の顕在意識の部分が成長してくるのです。

次の段階はこれらの道徳的戒律をさらに内面化することです。このために与えられたのがイエス・キリストによる愛の教えです。戒律は外から人間の意識に枠をはめようとしますが、愛は内面から戒律の主旨に沿った意志を生み出すものです。外から枠をはめる必要はなくなります。イエスは、当時のユダヤの社会の凝り固まった戒律を次々に打ち破っていきました。一方で、イエスは「私が律法を壊すためにきたと思うな。私は律法を完成させるものである。」といっています(聖書、マタイによる福音書、五章一七節)。外からはめられた枠に従うのではなく、自らの意志で戒律以上の判断と行為を行っていくように人間の意識を拡大し強めていくのが、愛の教えの目指すところです。仏教においても人間だけでなく有情非情(生物も無生物も)すべてのものに慈しみを注ぐ慈悲の教えが与えられ、それにより社会的に大きな働きをする人もありました。霊性回復ゲームの立場から見れば、この段階で人間の意識はさらに拡大し、エゴを超える部分が育ってきたことを示しています。

その次の段階は直接的に霊性についての教えが与えられる段階です。イエスは「神は霊であるから、神を礼拝する者は霊と真理によって礼拝しなければならない。」と教えました(聖書、ヨハネによる福音書、4章24節)。これは人間が神と会うのは、スクリーンの中の仮想世界の中ではなくて、霊性の世界であることを教えているのです。意識の中心を仮想世界の中にある肉体から、霊的世界の方へ移しなさいということを教えているのです。キリスト教においては沈黙と静寂の中で神と交わるための黙想や観想が行われました。仏教においても座禅や念仏によって仏と一つになる道が教えられました。

このように、霊性への帰還が始まって以来、人間の社会には絶えず新しい指導者が現れ、人間が意識を拡大し、物質世界の幻想から離れ、神あるいは仏と呼ばれる霊的存在と一つになっていく道を教えつづけています。そのような指導者は、あるときは宗教家の形を取り、あるときは哲学者の形を取り、あるときは慈善事業や社会事業につくす人たちの姿を取って、人間の意識をさらに高め、さらに拡大するように働きかけているのです。

最近ではさらに新しい情報が、人間の形を取らない存在から伝えられています。それは広い意味でチャネリングと呼ばれる手段を取って伝えられる情報です。そのような情報を受け取る人が増えているのは、霊的世界のインターネットで物質世界に肉体を持たない存在とも交信ができる人が次第に増えているということを示しています。

チャネリングによって伝えられる情報の中には、さまざまな情報が含まれています。中には互いに矛盾するように見える情報もあります。だから、どれも信用できないと思う人もあるでしょう。「どれが本当なんだ」と迷う人もあるでしょう。けれどもこれらの情報は、一つの世界からくるのではなく、いろいろな世界の姿を伝えているのです。その中には、地球世界以外の仮想世界の姿を伝えるものもあります。宇宙や太陽や地球の意識からくる情報もあります。地球世界の中に姿をあらわしている山や川や動物や植物を担当する意識からの情報もあります。霊的世界そのものについて語る情報もあります。これらはすべて、地球世界の物質的側面という限られた部分だけに凝り固まっている人間の意識を拡大するために、「違う世界がたくさんあるよ」ということを知らせるために、送られてくる情報なのです。たとえば、どこかよその星の生物が地球にたくさんの探査カプセルを送り込んで、そのカプセルが落下した地点の情報をその星に送り返すという方法で地球の姿を知ろうとしたらどうなるか考えてみてください。百個のカプセルを送り込んだら百個の異なる情報が返ってくるのではないでしょうか。チャネリングによる情報も同じです。一つだけが正しくてほかは全部間違いだと考えるような短絡的な態度を取らず、神の意識という無限に広い世界の中にどれほど豊かな多様性が存在するかということに、眼を開いてください。それらの情報は、肉体だけに固執している私たちの意識を揺さぶるのが目的なのです。

肉体を持たない、姿のない存在からくる情報だからといって、すべてを受け入れなければならないわけではありません。特別扱いしないで、普通の情報と同じように、その情報が自分の意識を拡大していくために役立つかどうかを自分で判断して下さい。本当はあなた自身も、肉体を持たない、姿のない存在なのですから。

私たちがいま体験している地球世界ゲームは、はっきりとした方向性を持った世界です。いま地球世界ゲームは霊性への帰還の段階にあります。そこで霊性回復への方向性を示す指標が必要なのです。それは、まず外から当てはめる枠組みとして、規制として与えられました。それが道徳や戒律です。そして次には、自らの内面にその方向へ走る方向性を持ったエネルギーを生み出す「愛の教え」が与えられました、それは、肉体の存続を中心に考えるエゴの判断基準に対し、神の愛と知恵に基づく霊的世界の判断基準を教えているのです。それは、人間が意識を広げ、物質世界という幻想から離れ、潜在意識の層を浄化し、私たちを包んでいる神あるいは仏と呼ばれる霊的存在と一つになっていくための道具を与えているのです。霊性回復ラリーを走る私たちはその方向に走らなければなりません。そうでなければ、いくら一生懸命走っても目的地に到達することはできません。

道徳に従うのは、「よいことだから」ではありません。それが私たち自身にとって「得になるから」です。私たちの現在の目標は霊性を回復することであり、道徳の指し示す方向に走ることが、その目標達成に役立つからなのです。道徳を私たちの行動に対する「規制」あるいは「枠」と考えずに、道徳を自然なものであると感じるように意識を拡大していってください。肉体の快適さと存続だけを目的としたエゴよりも、もっと高次の意識を発達させることに意を用いてください。それが霊性回復への道であり、私たちのゲームを完成させる方向なのです。
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