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善と悪


私の家の庭にさざんかの木があります。あるときこの枝に毛虫がつきました。チャドクガという毒蛾の幼虫で、体長1センチ、太さ1ミリくらいの小さな毛虫ですが、触ると発疹が出て痒くなります。ある日気が付くと、一本の細い枝の先に200匹ほどの薄黄色の小さな毛虫がびっしりとかたまってついていました。私はちょうどそのとき一冊の本を読んだばかりでした。それには、すべての生命が神によってつくられ、神に愛されているのであるから、人間はどんな生き物も愛さなければならない、と書いてありました。私は「こんな毛虫も愛さなければならないのだろうか」と思いながら、いつもならすぐに殺虫剤をかけてしまうその毛虫をしばらく残しておきました。だれも気がつかないうちに成虫になって飛んで行ってしまうことを願っていたのですが、三日ほどすると家族の一人が気づいてしまいました。私は仕方なくその毛虫たちを小枝ごと切り取って処分しました。その後で、私は自分の心の動きを振り返って気が付いたのです。私が毛虫を残したのは、毛虫を愛したからではなかった、自分が悪いことをするのを恐れただけだと。

私たちは物事を善と悪とに分け、善を行い悪をしないようにと奨めます。けれども「よいことだからする」というのはすべて偽善です。それは愛の行為ではなく、自分の価値を高めたい自己中心的な行為です。

子供たちに「よいことをしなさい」と教えるのは、偽善者を育てているようなものです。そうではなくて、人へのやさしさや、親切や、感謝や、愛を、心の内側で感じる子供たちに育てるようにすべきなのです。感じたとおりに行動したら、結果としてよいことをしてしまう、そういう人間をめざすべきなのです。

私たちは物事の善悪を判断するために、さまざまな価値判断の基準を心の中に持っていて、それによって自分の行動を決めていきます。その中にはほとんど無意識に使ってしまう隠れた判断基準もあります。そのような基準の一つに「役に立つものに価値がある」という観念があります。

経済の発達した現代の私たちは、あらゆることを経済価値で判断しようとする傾向があります。お金をもうけるとか、よい品物をつくるとか、高い給料をもらうとか、これらは明らかに役に立つことに価値があるという観念の一種です。

ところがそれだけでなく、ボランティアや無償奉仕の行動を支える「ひと様あるいは社会のために役に立つことがよいことである」という観念も、一見経済価値の観念とは正反対の観念に見えますが、「役に立つ」ことに価値を置いているという点で同じ種類の観念です。この観念は、その裏返しとして「役に立たないものには価値がない」という観念とセットになっています。

私たちは、このような価値判断の基準を潜在意識の中にしまい込んでいますが、ふだんそれによって判断していることに気がついていません。けれども何かの事件や環境の変化が起こったときに、突然それが表に顔を出します。男性は定年になったとき、女性は子育てが終わったとき、自分の存在意義を見失って落ち込むといわれます。それは心の奥底に「役に立たないものは価値がない」という観念が染みついているからです。自分自身が役に立たなくなることを受け入れられないのです。

一見すると、だれかの役に立ちたいという気持ちはまともなものに見えます。美しいことのように思えます。けれども「役に立つことに価値がある」と思っている人が役に立つことをしたいのは、自分の存在価値を高めるために役に立つことをしたいのであって、相手への愛からそれをしたいのではないのです。

「役に立つものに価値がある」という観念は、身体障害者を差別する意識と同じものです。体に障害があって歩くことも話すこともままならない人たちを、私たちは無意識のうちに「この人たちは何の役にも立っていない」という目で見てしまうのです。心の中にこの観念がある限り、私たちが障害のある人たちにどんなに一生懸命奉仕をしようと、どこかに偽善の匂いが付きまといます。

似たような観念に、「受けるよりは与えることの方がよいことである」という観念があります。中にはあまりにこの観念が強すぎて、人の世話になる事を極端に嫌い、そのために遂には餓死してしまうという人さえあります。

けれども、与えるという行為は、受け取る人がいなかったら成り立たないのです。与える人と受け取る人がいてはじめて、与えるという行為が成立するのです。それなのに、片方がよくてもう一方が悪いというのはナンセンスです。もし世界中の人が与える人だったら、だれが受け取るのでしょうか。

このような観念を持っていると、私たちは、よいことをするために悪い人を必要とすることになります。

では、どうすればいいのでしょうか。私たちは善と悪の価値判断を捨てるべきです。人間の価値を判断しないようにするべきなのです。行動の価値も判断すべきではないのです。したくないけどよいことだからする、したいけど悪いことだからしない、というのはすべて偽善です。
 聖書には、クリスチャンでなくてもよく知っている有名な物語があります。エデンの園におけるアダムとイブの堕罪の物語です。そのとき神は言います。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(聖書、創世記、2章17節)

私たちは、善悪を判断して行動するのではなく、それよりは、心の中に愛が育つように心のケアをするべきなのです。そして、よいこととか悪いこととかを判断して行動するのではなく、心の奥から出てくるかすかな促しの声に聞きしたがって、無心に行動するようになるべきなのです。そのとき私たちの行いは神の光の中にあり、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」のです(聖書、イザヤ書、42章3節)。
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