魂のインターネット

インターネット型世界像


図2に新しい世界像を示してあります。この図を、大広間型世界像の図1と比較しながら見てください。この図の重要なポイントは五つあります。

まず心の構造は図1とよく似ていますが、感覚があったところに「仮想体験スクリーン」と書いてあります。これが第1のポイントです。

私たちが外界と思っている物質世界は、この心の中のスクリーンに映し出された映画なのです。仮想の世界なのです。人間界の映画は眼と耳だけで鑑賞しますが、この心の中の映画は、私たちの持っているあらゆる感覚を総動員して鑑賞するようにつくられています。そのためにそれは強烈な現実感を持っています。それはひところあちこちにつくられた体験劇場のようなものです。体験劇場では、目と耳だけでなく座席を揺すったりして身体にも刺激を与えるようになっていましたが、心の中の仮想体験スクリーンは私たちの肉体が持つすべての感覚を使うので、人間界の体験劇場よりはるかに真に迫った体験を与えるようにできています。

それだけではありません。この映画は「双方向」映画であって、私たちはただ受け身で鑑賞するだけでなく、その映画の中に入り込んで、その中の登場人物の一人として積極的に映画の中の世界を体験するようにできているのです。このために私たちはこの映画の中に自分の分身を登場させます。それが私たちの肉体です。人間は肉体ではありません。この図に示した心が人間なのです。肉体の中に心があるのではなく、心の中に肉体があるのです。「心である人間」は、自分の中にあるスクリーンに映し出される仮想の映画の中に仮想の人間である肉体を置き、その肉体が持っている感覚を通じて、仮想の世界の中で「肉体であること」を体験するのです。私たちの感覚そのものが、この仮想の世界を現実だと思い込むようにとの目的でつくられた仮想世界の中の体験なのです。

そのような意味では、このスクリーンは、映画というよりは、遊園地などにある自動車や飛行機の操縦シミュレーター(疑似体験装置)に似ています。シミュレーターというのは、中に入って運転すると、本当の飛行機や自動車に乗って空を飛んだり道を走ったりしているような感じがします。たとえば窓の外には実際の景色が流れて行くように見えます。けれども実は、そのように見えるというだけで、実際に空を飛んだり、道を走ったりするわけではありません。シミュレーターの高級なものは、本当の操縦士や運転手の訓練に使われます。私たち人間は、心の中にシミュレーターを持っていて、それで飛行機や自動車を操縦する代わりに、肉体を操縦するのです。

第2のポイントは外界です。外界には「霊的世界」と書いてあります。従来の大広間型世界像では心の外は物質世界であると考えていましたが、物質世界は心の中のスクリーンに収まってしまいましたので、外界は物質世界ではありません。心の外にあるのは霊的世界なのです。ということは、この心自体が霊的存在であるということです。

霊的世界とは、哲学的な言葉でいえば「実在」ということです。人間の本当の姿は、肉体をまとわない心であって、それは実在の世界に存在する「実在」であり、霊的世界に住んでいる「霊的存在」です。それは意識、魂あるいは霊といってもいいかも知れません。このような言葉の使い方については、第4部の「霊という言葉」を読んでください。どのような言葉で呼んでもかまいませんが、人間は物質ではなく、霊的な存在です。物質的な存在と霊的な存在の最大の違いは、霊的な存在は生まれることも死ぬこともない、ということです。人間にとって死というのは最大の関心事ですが、それは物質世界という仮想の世界の中で、肉体という仮想の人間が体験するものであって、本当の人間は決して死ぬことはない、というのがこのモデルが示していることです。

第3のポイントは、この心から線が出て他の人の心につながっていることです。もちろん物質世界はスクリーンの中にあるのですから、この線は物質世界の中にある線ではありません。それは霊的世界の中にある目に見えない線です。私たちはこの線を通じて互いに、心と心のあいだで情報を交換します。そして、それによって他の人や世界に関する情報を手に入れ、それをもとに自分のスクリーンに他人や世界の姿を描き出します。

その様子は、ちょうどインターネットにつながったパソコンに似ています。スクリーンをパソコンの画面だと思ってください。画面の上に私たちが外界と思っている世界の姿が映し出されています。自然界の風景も、そこで私たちが出会ういろいろな人の姿も、みんなこのスクリーンに映し出されます。私たちの顕在意識は、この画面を覗き込んでいる少年あるいは少女です。顕在意識という領域に描かれた矢印は、そのことを示すためのものです。私たち人間は、霊的世界のインターネットにぶら下がったパソコンのような「心」なのです。

この線は特定の人とだけつながるのではありません。地球の上に住むすべての人間とつながっています。さらに後に明らかになるように、人間以外の存在とさえつながっています。ただ線はつながっていても、そこから情報を取り入れることがなければ、それらの人々や人間以外の存在とはつながっていないのと同じです。物質界のインターネットにも、世界中で何億人もの人が自分のパソコンを通じてつながっていますが、たとえば私がその人たちの情報を読まなければ、私にとっては、その人たちは存在しないのと同じです。

次に、心を表す卵形の右端を見てください。卵の殻が少し切れている部分があります。これが第4のポイントです。私たちの心は外界に対して完全に閉じてはいません。私たちの顕在意識がパソコンを覗き込んでいる少年または少女であるとしたら、その背中の方に部屋の出入り口があると考えてください。そこを通って部屋の中から外へ自由に行き来できます。ただし部屋の外にあるのは物質世界ではなく霊的な世界です。

私たちの普通の意識状態においては、この出入り口は心の奥の方にあるように感じられます。それは、私たちの注意がいつも「外界」だと思い込んでいるスクリーンの方に向いているからです。スクリーンを外界だと思うので、本当の外界への出入り口が心の内面だと感じられるのです。霊的な指導書の多くが、心の内面に注意を向けるように指導します。また私たちは、瞑想によって心の内側の奥深く入って行くように感じます。それは、私たちの顕在意識の注意をこの心の出入り口に向けようとしているのです。

最後に、矢印が描かれた「顕在意識」という領域と、心の出入り口とのあいだに「潜在意識」という大きな領域があって、顕在意識と外界がつながるのをさえぎっていることに注意してください。これが第5のポイントです。

先ほどから私たちの顕在意識を、インターネットにつながったパソコンの画面を覗き込んでいる少年または少女にたとえています。潜在意識は、その背中のあたりに積み上げられた膨大な書類の山だと考えてください。その中には、私たちが霊的世界の存在として長い間に蓄積してきたさまざまな思考や感情や観念や信念の記憶が溜め込まれています。またその中には、私たち自身が決して見たくないと思って見えないところに押し込んでしまった記憶も存在しています。そのようなものが、あるものは整理され、あるものは整理されないままの状態で積み上げられているのです。そのために部屋の出入り口はふさがってしまい、いまでは出入り口があることすら忘れられてしまいました。そして部屋の中に閉じ込められた顕在意識である少年または少女は、自分がまったく孤立した存在であると感じているのです。このように、私たちの「顕在意識」は、本当の外界である霊的世界とのつながりをさえぎられ、霊的世界が存在することも、自分自身が霊的存在であることも、みんな忘れてしまったのです。

これが新しい世界像です。この世界像をインターネット型世界像と名付けましょう。
もう一度整理します。私たち人間は、霊的存在である心であり、霊的世界のインターネットにつながっています。心の中にスクリーンまたはシミュレーターのようなものがあって、そこで私たちが「外界」と思っている物質世界の生活を体験します。霊的存在のレベルから見れば、物質世界とその中に置いた自分の肉体は仮想の体験です。私たちの心は真の外界である霊的世界につながっていますが、その通路の前に潜在意識の分厚い層ができてしまっているので、顕在意識は霊的世界につながることができません。それで私たちは、みんなばらばらの肉体的存在だと思い込んでいるのです。
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