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大広間型世界像


現在、私たち人類は片手に科学や技術を持ち、もう一方の手に宗教や哲学を持っていて、その両方の折り合いが悪いことに困惑しています。現代では、ほとんどあらゆる場合に科学技術のほうが優勢勝ちの状況ですが、だからといって私たちは科学技術だけですべてが解決するとも思っていません。私たちは科学的合理性をほとんど無条件に受け入れ追求する一方で、宗教、哲学、道徳、倫理、思想、芸術、そして個人的な心理や感情といった人間の精神活動に属する面の取り扱いに、何かが欠けているのではないかと不安を持っています。物質的生活が極限まで豊かになったのと対照的に、精神的生活においては不完全燃焼を強いられ、不満が鬱積しています。そして、遂にはその溜まり溜まったエネルギーが制御不能になり、不幸な犯罪に結びついてしまう人も後を絶ちません。

どうしてこんなに私たちの精神内容が貧しくなってしまったのでしょうか。それは私たち人間が持っている基本的な世界像のためである、と私は考えています。

図1は、私たちが現在ふつうに持っている世界像を模型的に描いたものです。
私たちは、自分たちが外界すなわち物質世界の中に肉体をまとった心として存在していると考えています。ただし図1には肉体は描かずに心だけを抜き出して描いてあります。私たちは心の中から感覚という窓を通して外界を見ています。心の中には顕在意識と潜在意識があり、潜在意識の中には、感覚を通して入ってきた情報を理解するための土台になる知識や観念、過去の出来事や感情の記憶、価値判断のもとになる善悪や損得の基準、人間としてあるいは動物としての本能や欲望の衝動など、さまざまなものが蓄積されています。図1で顕在意識の中に矢印が描かれているのは、私たちの顕在意識がいつも感覚を通して見える外界の方に注意を向けていることを示すためです。

このような心を持った肉体である人間が大勢集まって一つの世界の中に存在しています。みんな同じただ一つの共通の世界に住んでいます。それは大広間に大勢の人が集まってパーティをしているようなものです。そこでこのような世界像を大広間型世界像と呼ぶことにします。これが、私たち人間が現在ふつうに持っている世界のイメージです。

ジプトやメソポタミア、インド、中国などに現代文明のさきがけが生まれて以来六、七千年といわれますが、その間に人間は肉体的あるいは物質的な生活においては驚異的な発達を達成しました。けれども私たちの持っている基本的世界像においては、まったく変化していないのではないかと思います。古くから、西洋でも東洋でも、多くの哲学者や宗教家が想像を絶する修行と思索の末に到達した深遠な哲理や宗教的な教えを伝えてくれましたが、それらは私たちの持っている基本的世界像と相性が悪いため、なかなかしっくりとは受け入れられない状態です。哲学者や宗教家自身も同じ世界像にとらわれたため、その思索に足かせをはめられているような場合がしばしば起こりました。私たちは「それらの深遠な真理を拒否するわけではないが、それをどのように自分たちの世界像の中に位置付けたらよいのかわからないでいる」という状態なのです。

人類はすでに物質的進化の終点にきています。これ以上物質的進化だけを追い求めれば、自らを破滅させてしまうほかはないところまできています。これからは霊的な進化に向かって行かなければなりません。そのことを予想または期待する人も大勢います。たとえば米国でベストセラーになったジェームス・レッドフィールドの『聖なる予言』『第十の予言』『聖なるヴィジョン』などにははっきりと「霊的進化」という言葉が使われています。けれども、人類が霊的に進化するためには、現在私たちが持っている基本的な世界像を変えなければならない、と私は考えています。それは絶対に必要ではないにしても、すくなくとも人類が効率的に霊的進化をとげるためには、どうしても必要なことだと思います。

人類が大昔から持ち続けているこの大広間型世界像の最も重要な特徴は、そこには神の存在する場所がないということです。描かれているのは、外界と名付けられた物質世界と、その中に住む肉体を持った心だけです。もっとも「神なんかいないのだから当然だ」と考える方がおられるかも知れません。けれども、実はその考え方自体がこの世界像から生み出されたものなのです。この世界像は、私たちの日常的な素朴な感覚体験をもとにして生まれたものですが、同時に私たちに対して「存在するものは物質世界だけだ」という観念を強固に植え付ける役割を果たしています。

私たち日本人は、別にはっきりした仏教徒でなくても、仏教の教える言葉をいろいろ聞きかじっています。その中でも最もよく知られているのが「色即是空」という言葉ではないでしょうか。般若心経にあるこの言葉は「物質世界は実体のない幻想である」という意味だとされています。イギリスのバークリーなど、西洋の哲学者の中にも、世界は幻想であると考えた人たちがあります。けれども、これまで私たちが持ち続けてきた大広間型世界像には、そのような考えを受け入れる余地がありません。幻想だとしたら、いったいだれの幻想なのでしょうか。60億人の人間が一緒に住んでいるこの大きな世界が、だれか一人の幻想であるというわけには行きません。そこで、西洋の哲学者たちは、世界は神の幻想であると考えました。日本では、だれの幻想かと論理的に追及する方向には行かず、「この世は一場の夢である」という無常感のほうが強く受け止められて、人々の心があきらめと死後の成仏を願う方向に向かって行ったように思われます。さらにこれが江戸時代には「どうせ夢ならば大いに楽しんだらよい」という刹那主義的な享楽主義に変わって行ったといわれています(阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書)。

結局私たち人間は、このような宗教的な教えや哲学的な思想をこの世界像と一体にすることができず、心の中で別々に抱え込んで、折に触れてあっちをたてたり、こっちをたてたりしながら、ふらふらと生きているのです。そのため、私たちの生きて行く姿勢は一貫せず、目先の物質世界の必要だけに追いまくられてきた結果、物質生活が豊かになるに反比例して精神生活の内容が貧弱になってしまったのです。

けれども、私たちの住んでいる宇宙の本当の姿は、私たちがこれまで持ち続けてきた大広間型世界像とはまったく異なるものなのです。それを次にお話します。
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