魂のインターネット

自他の合一


宗教の究極の到達地点は自他合一の真理です。それはすべてが一体である、ということです。私はあなたであり、あなたは私である、ということです。最近のチャネリング情報もそのことを繰り返し伝えています。

けれども、これくらい現代の私たちの価値観と衝突する言葉はありません。私はあなたではないし、あなたは私ではない。わかりきったことです。私たちのあらゆる価値判断も、愛や憎しみやその他のあらゆる感情や行動も、すべてがここから出発しています。私たちは個人という単位を非常に大切に考えています。個人としての人格の独立、互いの人格の尊重、そして個人のあいだの比較、競争、愛、戦い、すべてがそこから出発しています。

もしあなたが、「あなたが私であり、私があなたである」という言葉にとても耐えられないと思うようなら、この章を読むのはやめてください。当分のあいだ読まなくても差し支えはありません。もっと「自分が霊的存在である」という考えになじんでから読んでも遅くはありません。

受け入れるかどうかわからないが、自他合一とはどんなことなのか覗いてみよう、という好奇心に満ちた方は、どうぞ読んで見てください。

私たちが「自他合一」の言葉に耐えられないのは、「私」とは何かということをよく知らないからです。人間というのは、私たちが自分で想像しているよりもはるかに大きな存在なのです。私たちは自分自身のほんの一部分だけを「私」だと思っているのです。

仏教には、「個我」という観念が幻想である、という教えがあります(長尾雅人訳、金剛般若経、中公文庫 大乗仏典1 般若部経典、中央公論新社、p13)。実は私たちの認識の根底にある、大きいとか小さいとか、同じだとか違うとか、そういう観念そのものが、物質世界を体験した人間に固有の仮想世界的観念なので、霊的世界を理解することが難しいのです。

霊的世界の真実は、仮想世界を表現するために発達した人間の言葉で正確に記述できるものではありません。自他合一を言葉で説明するのは不可能です。たとえ説明できたとしても、このことは単に頭で理解しただけでは何の役にも立ちません。かえって誤解や混乱を引き起こす懸念さえあります。私たちがもうすこし自分が霊的存在であるということに慣れてきて、肉体という仮想の自分にとらわれることが少なくなれば、自他合一ということが受け入れやすくなってくると思います。

そのようなわけで、ここでは、自他合一になじんで行くためのイメージを二つ提供します。あくまでこれは一つのたとえに過ぎないと考えてください。

第一のイメージは、私たちが一人一人心の中に仮想体験スクリーンを持っていて、そこに自分の体験する世界をつくり出しているということによるものです。どのようにして私たちが自分の心のスクリーンに外界と思うものの姿を描き出すかということについては、第2部の「仮想現実の作成メカニズム」と「潜在意識のわな」という章に述べました。そのことを思い出して、もうすこし深く考えて見てください。

たとえば、いま、私がAさんという友人を見ているとします。私はAさんのホームページから情報を取り出して、それをもとにAさんの姿を描きます。私はAさんのありのままの姿を見ていると思っていますが、それはあくまでも私が描いたAさんの姿であって、他の人が自分の心に描くAさんの姿はそれとは異なっているはずです。つまり、私はAさんを見ているのではなく、Aさんに関する私の観念を見ているのです。それは、私がAさんの真実の姿を知ることはできないということを意味しています。

もし私がだれかを好きになったとしたら、私はその人を好きになったのではなく、その人に投影された私の観念を好きになったのです。もし私がだれかに怒りを持つなら、それはその人に対して怒っているのではなく、その人に投影された自分の心の中の観念に対して怒っているのです。

代の私たちは悪魔や幽霊を信じていません。そのようなものが、自分の心の中の恐怖や不安や罪の意識の投影であるということを知っています。実は、私たちが外界だと思っているすべてのものが投影なのです。それらはすべて、私たちが自分の心の中に持っているもののシンボルが身体の外に現れたものなのです。それは夢と同じです。私たちが見る夢の中に現れる人物は、すべて自分の心の中に存在する隠された観念や信念のシンボルであるといわれます。それはすべて私たちの人格の構成要素の一部です。それと同じように、私たちが外界だと思っているものもすべて、私たちの人格の一部なのです。

このような言葉を聞くと、何かむなしい感じがするかも知れません。私たちは、自分で自分を愛したり、自分で自分を傷つけたりしているだけなのでしょうか。本当の姿は知り得ないとしても、Aさんは実在するのではないでしょうか。もしAさんが実在するなら、Aさんと本当に交わったり、愛したりすることはできないのでしょうか。私たちは、自分の外部に客観的に存在する何かをほしいと思っています。肉体のAさんは仮想のキャラクターであるかも知れませんが、その本体である霊的存在は、私の本体である霊的存在とは違う、客観的な存在なのではないでしょうか。

それが第2のイメージにかかわることです。霊的世界には空間も距離もありません。したがって、ある存在と他の存在とが「離れている」ということがありません。そのことは「空間を超えて」という章に述べました。あらゆる存在が一つに重なって存在しているのです。人間の言葉ではこれ以上表現する方法がありませんが、あるものが他のものと離れて「別々に存在する」という観念は、私たちが物質宇宙という仮想世界で空間というものを体験したために起こった幻想です。私たちは霊的存在であり、それはすべて神の意識の中にあるので、神から離れることはできません。私たちは、神から離れることができないだけでなく、神の意識の中に存在する他の霊的存在からも離れることはできないのです。それは、私の夢の中に二人の人物が現れたとして、この二人は互いに離れているかどうか、という問題に似ています。夢の中では確かに別々の人物であり、離れていると思うでしょう。けれども実際には、それは私の意識の中に大きさも場所もなしに存在するのです。離れることも、別々であることもできません。二人の人物も、その周りの環境も全部含めて私の夢なのです。もともとそれは一体なのです。

一つの新しいたとえをお話しましょう。最近の物理学は、あらゆる物質をつくる要素である素粒子が、非常に小さな弦(ストリング)によってつくられていると考えています。その弦がどのくらい小さいかというと、原子の大きさの一兆分の一のさらに一兆分の一ぐらいの大きさです。素粒子には、陽子や電子や中性子といったさまざまな種類がありますが、その種類はこの弦の振動の仕方によって決まります。たとえていえば、陽子はドの音で、中性子はレの音で、電子はラの音だというような感じです。

これと同じたとえを使うと、神は一本の弦で、その振動が霊的存在であるといえます。神がある音色の音を出しているとき、その弦の振動にはさまざまな音が含まれています。たとえばドの音を出しているときでも、単純な一つのドの音だけでなく、それのさまざまな倍音が含まれていて、それが音色を決定するのです。一つの弦が、複雑な振動をしているとき、その中の振動要素を一つ一つ分離することはできません。すべてが一つになって、それが美しい一つの音になるのです。霊的世界もこれと同じです。神の意識の中に存在する無数の霊的存在たちは、すべてが一体となって、神の意識における美しい音色を奏でています。霊的世界の中に存在する霊的存在のすべては、あなたも私も含めて、本来一体なのです。これが「あなたは私であり、私はあなたである」という言葉の意味です。

存在するすべてはあなたです。あなたでないものは何も存在しません。この言葉によって、あなたは寂しさを感じるかも知れません。天涯孤独の心境かも知れません。もしそうなら、あなたは神の孤独を感じているのです。神は孤独です。神以外には何も存在しないからです。神の外には真空さえも存在しません。神には外側はないからです。神は孤独です。そこで、神は自分の内面に無数の霊的存在を生み出しました。それはすべて神の分身です。そして神はこの霊的存在たちと、遊び戯れるのです。あなたも神の分身です。神はあなたと遊びたがっています。なぜなら神があなたであり、あなたが神だからです。あなたはすべてであり、すべてはあなたです。
 「隣人を自分のように愛しなさい。」(聖書、マタイによる福音書、22章39節)
これはイエス・キリストの言葉です。けれども、私はこの言葉をこう訳します。
 「隣人を自分として愛しなさい。」
なぜなら、それはあなた自身だからです。
inserted by FC2 system