魂のインターネット

エゴの声と神の声


霊性を回復するとは、日常的に神の声を聞きながら生きていくことです。

私たちは、神についていろいろ考えることはできます。神の教えはこういうことだという話を聞いて、それにしたがって人生の道を歩もうと努力することはできます。けれども、ふだんの生活で直接神の声を聞きながら、それにしたがって歩むことはできない人が多いと思います。なぜなら、神の声を聞くことができないからです。神の声を聞くとはどういうことか、わからないからです。

まず理解すべきことは、人間は実際に神の声を聞くことができる、ということです。そんなことはできるわけがないと思っているあいだは決してできません。私たちは自分にできないからといって、それを信じられないということはありません。私たちは、ほとんどの人が100メートルを10秒で走れといわれてもできないでしょう。けれどもオリンピックの選手が100メートル走で10秒を切ったと聞いても驚きません。同じように自分は神の声を聞くということがどういうことかわからなくても、人間がそれを聞くことができるということを信じることはできます。そのために本書で示した新しい世界像を使ってください。人間は神の意識の中に存在する「心」です。それは神の中にどっぷりとつかっています。神の声が聞こえないはずはないのです。

神の声がいまの私たちに聞こえないのは、私たちの潜在意識がそれをさえぎっているからです。潜在意識の声の方が、神の声より大きいのです。潜在意識の中にもいろいろなものがありますが、最も大声で叫んでいるのはエゴです。エゴは、顕在意識を支配しようとして、いつも大きな声で叫んでいます。第2図の心の構造をよく見てください。顕在意識から見ると、潜在意識と、神の声が入ってくる心の入り口とは、同じ方向にあります。したがって顕在意識にとっては、神の声もエゴの声も同じように自分の心の内面からくるように聞こえるのです。このことは逆に考えれば、心の内面から聞こえてくるからといって不用意に信じると、それはエゴの声であるかも知れないということです。世の中に、時々、神の声を聞いたといってとんでもないことをする人がいますが、それはこの声の方向性が重なっていることの危険性に気づいていないからです。

神の声を聞こうとするなら、まず「神の声」とはどんなものかを知っておかなければなりません。それはいったい何であって、「神の声」という言葉から連想するように、人間の言葉を使って語りかけるものであるのかどうかを知っておかなければなりません。

「神の声」という場合の「神」が、第2部「神と人間」の章で述べた本当の「神」であることはありません。本当の神は、私たちを包んでいる生命の力そのもののようなもので、人間と個別に交わることはありません。人間と個別に交わるためには、神の力も個別化しなければなりません。したがって、人間に語りかけるのは、個別化された神、言い換えれば霊的な存在です。けれども、個別化された神と、本当の神とを区別すること自体が、物質世界という時間と空間の枠組みを持った仮想世界の体験からくる人間固有の理解の仕方に過ぎません。「神」を太陽にたとえると、「神の声」は太陽の光線のようなものです。それは光と熱という太陽の「質」を運んで私たちのような個別の存在に届きます。もし太陽そのものが私たちのところに近づいてきたら、私たちは燃え上がって跡形もなく焼き尽くされてしまうでしょう。「神の声」は、私たちの一人一人に最も適切な形で届けられる神の「質」なのです。

「神の声」が人間の言葉を使って語りかけることはあります。非常な危険に迫られたときとか、何か特別なときに、まるでだれかがそばにいるかのように語りかける声を聞いて助けられたというような人は何人もあります。けれども全体としてみれば、「神の声」が人間の言葉で語りかけるのは、特殊な場合です。めったにないことです。

一番多いのは、自分の思考であるかのようにして語られるものです。それはまったく自分自身が考えついたり、感じたりしたことのように見えます。けれども、その内容があまりにもふだんの自分の考えと違ったりすると、自分でも信じられません。そして、こんなことは不可能だ、などと考えて無視してしまいます。もっと多いのは、そのような声が自分の心の中にあることさえ気づかずに通り過ぎてしまうことです。そしてしばらくしてから、「そういえばあの時そういう気がしたんだが・・・」と思い出すようなことになります。

その他に、偶然の出来事や、友人の言葉や、たまたま開いた本の中の言葉や、小鳥の鳴き声や、風の音や、谷川のせせらぎによって語られる言葉もあります。

神はあらゆる場面で、あらゆる物を通して語りつづけています。神が使わない道具はありません。それに気づくかどうかは、私たちの注意力次第なのです。神の声を聞くためには、私たちの注意力が研ぎ澄まされていなければなりません。

そして次に、聞いた声が本当に神の声なのか、エゴの声なのかを判断しなければなりません。そのためには、神の声とエゴの声の特徴を知っておくことが必要です。

神の声はいつも非常に小さなさりげない声です。神の声を聞こうとするなら、心の中の最もかすかな声を聞いてください。大きくわめきたてる声は神の声ではありません。ひそやかで、静かで、落ち着いた声を探してください。心がざわついているときには聞こえません。静かな声を聞くためには、聞く方の心も静かでなければならないのです。

神の声を聞くためには、心の最も深いところの声を聞いてください。心の表面の方のいつでも気がつくようなところにある声は神の声ではありません。深く深く深く、一番深いところの声よりも、もっと深いところからくる声がないかに注意を向けてください。

神の声を聞くためには、聞いて安心感が得られるような声を探してください。声が語る内容によって安心するのではありません。内容によって安心しようとすると、エゴにだまされます。エゴは私たちに都合のよいことをいうからです。内容ではなくて、声そのものに安心感がある、安らかな、慰めに満ちた声を探してください。内容はどうでもよい、この声を聞いているだけでもう死んでもいいと思えるような安らかな声です。

そして最後に、神の声を聞くためには、力強い声を探してください。

心の最も深いところからくる、最もかすかで、静かで、落ち着いて、おだやかで、安らかで、そして何事が起こってもびくともしないどっしりとした力に満ちた声、そのような声が神の声です。

恐怖や不安から生まれる声は神の声ではありません。慌てて叫んでいる声は神の声ではありません。何かから逃げようとする声は神の声ではありません。人を非難する声は神の声ではありません。あなたが見ている他人の姿は、あなたの幻想なのです。神はあなたと一緒になってその幻想に加わることはありません。逆に神はどんな幻想も非難することはありません。幻想は幻想です。何の意味もありません。神はただその幻想から覚める道を示します。

あなた自身をよいものやえらいものに見せる声も神の声ではありません。あなたが見ているあなたの姿も幻想なのです。幻想の中であなたがえらくなろうがなるまいが神には関係のないことです。神はただ、その幻想から覚める道を示すでしょう。

神の声を聞くためには、心を落ち着け、静かに自分の内面に入って行く時間が必要です。瞑想や祈りの本を探して練習してください。
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