魂のインターネット

宗教


科学が仮想世界である物質宇宙のしくみを解明するのに対し、宗教は、仮想世界の上位にある霊的世界のことを人間に教え、人間が霊性を回復して、自分が霊的存在であることの自覚を取り戻すことができるように働くべきものです。

現在、人間は霊性を忘れていますが、それは霊性を失ったということではありません。霊性を失うことはできません。ただそれを忘れて、霊性がないものであるかのように行動しているだけです。いわば、人間はすべて霊的機能不全あるいは霊不全という病気にかかっているのです。宗教というのは本来、この人間の霊的機能不全に対する治療法であり、教会やお寺などの宗教施設は人間の霊性を回復させるための病院であるべきものです。

霊不全というのは、自分が本来霊的存在であることを忘れて、肉体が自分であると思い込んでいる病気です。たとえば、ここに一人の男の子がいて、自分は猫だと本気で思い込んでいたら、この子は病気だから病院に連れて行かなければならないと、だれでも思うのではないでしょうか。霊不全というのはそれと同じような病気です。

国連の世界保健機関WHOは、健康というものを次のように定義しています。
健康とは、肉体的、精神的、社会的に完全に良好な状態にあることであって、単に病気や障害がないということではない(WHOのホームページ、訳は著者)。

1999年2月に、WHOがこの定義に「霊的」という言葉を入れることを検討しようとしていると伝えられました(日本経済新聞、1999年2月27日、文化欄)。最近WHOのホームページを覗いて見ましたが、残念ながら霊的という言葉は見当たりませんでしたので、この案件は採択されなかったのだと思います。けれども、本当の健康とはまさに「霊的」に良好な状態にあることであって、人間は霊的に不健康であるために、その他のあらゆる不健康、肉体的、精神的、社会的な不健康が発生しているのです。

イエスは自らを医者にたとえ、「健康な者には医者はいらない。」といわれました(聖書、ルカによる福音書、5章31節)。それは、自らを健康であると自認している当時の知識人たちへの痛烈な皮肉であると同時に、「私はあなたたちを癒す者である。」という強烈な自信と使命感の表明でもあったのです。

医者が病気をなおすのと同じように、霊不全を治療するためには五つの段階が必要です。
第一は病気の診断です。霊不全とは、どんな病気で、何が原因で起こるのか、それによってどのような症状が起こり、どのような苦しみが発生するのかを知っていなければなりません。
第二に、治療法を知らなければなりません。
第三に、治療法を実際に実行する技術とノウハウを持っていなければなりません。治療法を知っているだけなら、それは医学者であって医者ではありません。医者は実際に患者に治療を施す意志と能力がなければならないのです。
第四に、患者に自分で行うリハビリを教え、それを実行するように促す指導力がなければなりません。
そして最後に、患者を退院させる判断と決断力が必要です。どこの病院でも、入院があれば退院があります。入院はさせるが退院は認めないという病院はありません。

現在は、どこの宗教団体も信者をその宗教につなぎとめておくことを至上命題にしているように見えますが、宗教団体は霊不全が治った人をどんどん退院させるようになる必要があると思います。病院の目的が、病気を治療することであって、病院に通わせることではないように、宗教の目的は、霊不全を治療することであって、宗教施設に通い続けることではないのです。そんなことをしたら宗教団体はつぶれてしまうと思う人がいるかもしれませんが、本当に霊不全を癒された人は、今度は患者ではなく医者として、あるいは病院を支えるサポーターとしてその団体に戻ってくるでしょう。それによってこそ、本当の宗教が教えられ、本当の宗教団体が維持されるようになるのです。

一方、患者は自分で治ろうという意思を持たなければなりません。そのためには患者自身も霊不全とはどんな病気であるかを知ることが必要です。霊不全の治療には薬も手術もいりません。霊不全とは何かを知り、適切なリハビリの方法を教えてもらって、あとはひたすら自分自身でリハビリに励むほかはないのです。霊不全の治療とは、人間が自分の心の内面において神とのつながりを回復することであり、何かの教義や信条を信じたり、儀式を行ったり、教祖や聖典をあがめたりすることではありません。最終的にはあらゆる教義や信条から自由になり、ただ心の中に流れる愛と至福のエネルギーによって光り輝く存在として生きるようになるのです。

人間は、霊的存在として持っているあらゆる性質や能力を、今でも完全に持ち続けています。霊性というのは失うことも捨てることもできません。ただ、忘れてしまっているので霊的能力も霊的性質も現れることができないのです。多くの宗教が、究極のところで「そのままでよい」という境地に到達するのはこのためです。人間は本来の姿から何も失っていないし、何も付け加えるべきものはありません。けれども、忘れたままでよいというわけではありません。もしそうなら、如何なる宗教も霊的指導者も必要なかったでしょう。私たち人間は自分の本当の姿を思い出す努力をするべきであり、すべての宗教は人間の本当の姿が何であるかを教える責任があるのです。
inserted by FC2 system