魂のインターネット

仮想社会ゲーム


人間が古くから大広間型世界像を持ち続けた理由は、一つの世界の中に大勢の人間が集まって社会を構成しているということを日常的に経験しているからです。インターネット型世界像においては、どのようにして多くの人間が社会をつくることができるのでしょうか、それをまず検証しておく必要があると思います。

そのためには格好のモデルがあります。それは最近インターネットの上ではやっているグループ参加型のロールプレイングゲームです。仮想空間ゲームとか仮想世界ゲームと呼ぶ人もあります。

ロールプレイングゲームというのは、役割参加型ゲームとでもいいましょうか、ある物語の中の特定の登場人物の役をゲームの参加者が引き受けるタイプのゲームです。もともとは本の世界で生まれました。でき合いの冒険物語をただ読んで行くだけでは飽き足らないという人たちが考え出したものです。物語の要所要所に選択肢を設け、読んで行くときに読者がその一つを選ぶようにしてあります。たとえば、物語の主人公が敵に遭遇した場面で、読者への質問が用意されています。あなたは戦いますか、逃げますか、それとも和平交渉をしますか、というわけです。戦いを選ぶ人は25ページから読んでください。逃げる人は30ページに進んでください、交渉をする人は35ページに飛んでください、という具合です。選択肢の選び方によって物語が変わってくるところがみそです。

けれども本の世界では制約が強すぎました。つくれる選択肢も限られますし、選ばない道をあらかじめ読んでしまうこともできます。パソコンがゲームに使われるようになるとすぐにパソコン用のロールプレイングゲームが誕生しました。パソコンなら、選ばない道を先回りして見てしまうことも防げます。何が起こるかわからない道を選ぶことに冒険の楽しみがあるのです。パソコン用のロールプレイングゲームも、はじめは一人で遊ぶものでした。本の場合と同じようにプレヤーが物語の主人公になって次々に起こってくる状況に対して指示を出します。たとえば敵と遭遇して戦う場面で、どの武器を選ぶかということをプレヤーが指示します。するとその指示によって戦いの結末が違ってきます。このようなことを繰り返しながら首尾よく冒険の目的を達成するというゲームです。けれどもこのような一人遊びのゲームでは、プレヤーが指示を出すといっても、選べる選択肢もそれによる物語の変化もあらかじめゲームの作者によって仕込まれたものの範囲内でした。

インターネットが使われるようになって、このロールプレイングゲームにグループ参加型という新しいタイプが出現しました。それは、複数のプレヤーが一緒になって一つのゲームをするというものです。基本的には、二つのタイプがあります。一つは、二人のプレヤーが一対一で対戦するもので、若者向きの対戦ゲームなどが数多くあります。もう一つは大勢のプレヤーがいっしょに参加するタイプのものです。本書ではこのタイプを仮想社会ゲームと呼んでおきます。このようなゲームでは、そのゲームに参加する数多くのプレヤーがそれぞれ自分を代表する「分身」をゲームの世界の中に送り込むのですが、その分身たちが何らかの意味で社会を形成するからです。

仮想社会ゲームというのは次のようなものです。インターネットの中に適当な仮想の世界を設定します。それは架空の都市であったり、魔法の国であったり、ローマ帝国であったり、恐竜の住む島であったりと、ゲームの作者によって自由に設定されます。ゲームに参加するプレヤーたちは、その世界に自分の分身をつくって送りこみます。それは、そのゲームに固有の方法でつくられる人間や動物などの画像で、プレヤーの指示によって動かすことができるものです。ゲームによって、参加する人数が決まっているものと、人数制限がなく何人でも参加できるものがあります。プレヤーは自分の分身が一定の能力を持つように、訓練したりいろいろな道具を持たせたりしなければなりません。何も能力がなかったら、たとえば最初に出あった敵にすぐ殺されてしまうかも知れないからです。世界中からゲームに参加した人たちの分身が、みんな同じ仮想世界の中に入ってきます。プレヤーたちは、それぞれ自分のパソコンで、大勢の分身たちが集まっている仮想世界の画面を見ながら、自分の分身を通じて他のプレヤーの分身と会話をしたり、友達になったり、戦ったり、同盟を結んだりして、その仮想世界の中で起こる思いがけない出会いや、ゲームごとに設定されている目標の達成を楽しむのです。仮想世界の中で出会う分身たちは他のプレヤーが操作しているのですから、あらかじめゲームの作者が決めたとおりの動きをするわけではありません。予想のつかない反応が相手から返ってくるところがこのゲームのおもしろさでしょう。

プレヤーたちは、まるで自分自身がその分身になってその世界に入っているかのように感じるかもしれませんが、実際にはみんな自分のパソコンの画面を見ているだけです。仮想社会ゲームにおいて実際に社会をつくるのは分身たちです。そして分身たちというのは、正体を明かせば、コンピュータの中につくられた単なる画像に過ぎません。

これと同じように、私たちが現実だと思って住んでいる物質世界は、本当は霊的世界のインターネットにつくられた仮想社会なのです。物質世界の中で社会をつくっているのは、霊的存在である私たち自身ではなく、私たちの分身である肉体です。それはいわば、私たちの心の中の仮想体験スクリーンにつくられた単なる「三次元画像」に過ぎません。けれどもそう言ったところで、物質世界の現実性が薄れるわけではありません。私たちは、肉体の感覚を通じて物質世界を認識し、それを確かな現実であると感じます。それは「肉体の持っている感覚で現実であるかないかを判定する」というのが、物質世界という仮想世界のルールだからです。肉体の感覚も仮想現実のうちなのです。そのことは般若心経の中で色即是空に続く「受想行識もまた同じ」という言葉によって示されています。「受」とは感覚のことです。物質に実体がないように、感覚にも実体はないといっているのです。その実体のない感覚で感じたことをもとに、私たちは実体のない物質世界を現実であると思い込みます。それは私たちが、自分自身を肉体そのものと思うところまで肉体に意識を集中させてしまっているからです。そのために、霊的存在である私たちにとって本当の現実であるはずの霊的世界の方が、かえって非現実的に感じられるのです。

私たち人間はいま、霊的世界の中で、インターネットにつくられた仮想社会ゲームで遊んでいるようなものです。それがどのようなゲームであるかということは「地球という世界」で述べます。

「人間は仮想世界で遊んでいる霊的存在である」という見方に、違和感を覚える人もあるかも知れません。もうすこし世界をまじめに考えたいと思う人もあるかも知れません。

けれども「遊び」が不まじめであると考えるのは、物質世界のゲームに汚染された私たちの固定観念です。神には遊び以外にすることはありません。このことは「究極のゲーム」の章に述べてあります。もともと霊的世界というのは、さまざまなゲームによって遊ぶことだけが目的の世界なのです。このことは、私たちが道徳観念を持つことを否定しているわけではありません。道徳観念を持つこと自体が遊びのうちなのです。そして現在、道徳観念を持つことは非常に重要であり、さらにそれを超えた「愛」を心のうちに持つことがとても重要なのです。そのことについては、第2部「道徳の根拠」をお読みください。
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