魂のインターネット

自由、自主、自律


霊性回復の道というのは、結局のところ、私たちが意識の中に持っているさまざまな観念や信念、それから過去のショックの大きかった出来事の記憶や押さえ込んだ感情のしこりなどいわゆるストレスとかコンプレックスといわれるもの、を解消していく過程です。いわば意識のクリーニングをすることです。ところが、私たちの意識の大部分は潜在意識になっていますので、私たちは自分の意識の中に何が隠れているかを知りません。自分の知らないものに取り組まなければならないところに、霊性回復の道の難しさがあるのです。

そのような霊性回復の道を進むために大切な三つのキイワードがあります。それは自由、自主、自律です。それはひとことでいえば、自己責任ということです。聖書には「人間が神にかたどってつくられた」という言葉があります(聖書、創世記、1章27節)。神の最も神らしいところというのは、何者によってもつくられないというところです.神は完全に自主独立の自発的存在です。そして神にかたどってつくられた人間も、本来の霊的存在としては、自らを自らがつくっていくものとしてつくられているのです。霊的存在というのは、自分で自分のあり方を決めるという意味で、完全な自己責任の存在です。したがって、霊性を回復するためには、その途中の過程から、できる限り自己責任の姿勢を確立していくことが重要になるのです。

自由というと、私たちは社会的束縛のことを思い浮かべますが、私たちが体験する外界というのは、自分自身の意識の反映です。外界が問題なのではなく、自分の心の中が問題なのです。ここでいう自由は、自分の外から与えられる自由ではありません。自分の心の中にあるあらゆる観念から自由であることです。人間は心の中にいろいろな観念を持っています。そしてその観念に自分で縛られます。特に自分が大切に思う観念であればあるほど、その観念に縛られるのです。たとえば、私たちはふつう「人間とは肉体である」と思っています。この観念があると、「私は年を取っているから」とか「若いから」とか、「男であるから」とか「女であるから」といった派生的な観念が次々に生まれてきて、私たちはそれらの観念に自らの思考や行動を支配されます。自分の感情さえも素直に受け取れなくなります。

自由とは、意識のクリーニングにおいて聖域をつくらないということです。ありとあらゆる観念の見直しを行うということです。仮想世界に属する観念と、霊的世界に属する観念をふるい分けるのです。たとえば、肉体というのは仮想世界の存在ですから、それに伴う観念、たとえば、病気とか死とか老衰といった観念は、すべて仮想世界に属する観念です。一方、永遠の生命というのは霊的世界に属する観念です。このようにして、観念を二つに分けたら、自分の意識の中心を霊的世界の方に移し、そこから物質世界のことを見るようにしていきます。私たちは、この世に肉体を持って生きていますから、仮想世界に属する観念を持たないわけにはいかないのですが、このようにしていけば、仮想世界に属する観念を持っていながら、それに縛られなくなります。それが自由ということです。

自主というのは、自ら進んでチャレンジするということです。霊的存在というのは、完全な自己責任の存在ですから、自ら進んで決定していかない限り、何も起こらなくなります。物質世界のように、何もしなくても時間の流れがどんどん押し流してくれるというわけにはいきません。神には時間というものがありません。神の意識の中である霊的世界にも時間はありません。したがって、もし私たちが自分で動こうとしなかったら、無限に同じところに止まっていることもできるのです。

霊性への帰還の途中では、完全に時間がなくなるわけではありません。そのため自ら進んでチャレンジすることをしていないと、逆に、霊性の方からチャレンジを受けることになります。それは、潜在意識の中に隠されているものが現実化するという形のチャレンジです。何か思いがけない事件や病気や事故に巻き込まれて、たいへんな思いをします。それは意識のクリーニングをしなさいという信号なのです。外界が私たちの意識の内容を映し出す鏡になっているのはそのためなのです。

このことを善悪の判断と結び付けないようにして下さい。そのような事故に巻き込まれた人が悪いのだと思わないようにしてください。そのような考えこそ、クリーニングしなければならない仮想世界の観念なのです。聖書に、シロアムの塔と呼ばれる建築物が倒れて20人近くの人が死ぬという事故があったという記事があります。これについてイエスが弟子たちに語った言葉があります。「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深いものだったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(聖書、ルカによる福音書、13章4-5節)。昔の人たちは、何か悪いことが起こると罰があたったと考え、その出来事に遭った人たちは罪深い人間だと考えました。逆に、現代の私たちは何事も偶然だと考え、自分たちに罪はないと考えます。どちらも真実ではありません。私たちの心の中にあるものがいつ具体的な形を取って外界に現れるかは、だれにもわかりません。けれども、外界に現れないことが、そのようなものを持っていない証拠にはなりません。具体的な出来事にならないうちに、意識のクリーニングをすべきなのです。

最後に、自律というのは、自分で判断するということです。哲学であれ、宗教であれ、牧師であれ、聖書であれ、あるいはもっと簡単な忠告や助言であれ、自分以外のものの判断に無条件に従わないということです。もし、この人に、あるいはこの本に、従おうと決めたのなら、そう決めたのは自分であるということを覚えていてください。

霊性を回復するために、すべての人が絶対に従わなければならないというような道はありません。西洋の昔の人は「すべての道はローマに通じる」と言いました。鹿児島から東京へ行くのには、たくさんの方法があります。飛行機で飛ぶ方法もあれば、新幹線に乗ることもできます。鈍行列車の旅を楽しむこともできれば、マイカーで長距離ドライブをすることもできます。鹿児島から東京と反対の方向に向かって出発しても、地球を一回りして東京へ着くことができるのです。このような長距離を旅行する人は、最短距離を旅行する人には経験できないことを経験するチャンスがあります。同じように、神に至る道は無数にあります。すべての道は神に通じています。

私たちは「正しい」ということについて、一つの根本的な幻想を持っています。それは「正しい道は一つしかない」という幻想です。そのために、宗教がたくさんあるとすぐに、どれが正しい宗教かという議論をはじめます。どれか一つが正しければ、他のは間違いだと思うからです。正しい道は一つしかないと思うので、正しい道を知っていると思う人は、すべての人にその道を通らせるのが親切だと考えて、正しい道の押し売りをはじめます。正しい道は一つしかないと思うので、二人の人がそれぞれ「自分の道が正しい」と主張して争いをはじめます。正しい道は一つしかないと思うので、自分の考えが他の人と違っていると不安になります。なぜなら、正しい道が一つしかないのなら、二人の人がそれぞれ別の道を歩いていれば、どちらかがかならず間違っていることになるからです。

霊性への回復のために、「正しい道」を歩む必要はありません。自分に最も適した道を歩むことが必要なのです。霊性回復というのは、私たちが潜在意識に持っているさまざまな観念や信念やストレスを解消していく過程ですが、潜在意識の中に何があるかは一人一人みんな違いますから、それを解消していく過程もみんな違います。だれ一人同じ道を通る人はいないのです。教祖と呼ばれるようなカリスマ性の高い人に無批判についていくと、裏切られる結果になります。なぜなら、教祖が知っているのは自分にとって適した道であって、あなたにとって適した道ではないからです。本書でさえも無条件には信じないで下さい。本書のような本は、あなたの凝り固まった常識を打ち壊すために使うのです。そしてあなたの進む道はあなたの内面の声に聞いてください。あなたにとって最も適切な道を知っているのは、あなたの内面の声以外にはないのです。自律というのは、自分の心の奥の内面の声に信頼するということです。
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