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大人の童話2 永遠を生きるもの


いまから三十五年ほど前のことです。ある春の日の朝、私は熊本県の黒石原(くろいしばる)という小さな高原を、一歳半になる息子の手を引きながら歩いていました。私はそのころ長崎に住んでいましたが、妻の実家が熊本にあったので、その日は妻の友人の春休みにあわせて里帰りしていたのです。妻は、その大学時代の友人と話をしながら、私の10メートルほど前を歩いていました。足元の地面はまだ枯れ草に覆われていましたが、あちこちに新しい青い芽が覗き始めています。風は冷たくひんやりとしていましたが日差しは暖かく、空気はしっとりとしめって、新しい命を育んでいるのがよく感じられるおだやかな日でした。

突然、私は異様な感覚に襲われて足を止めました。足元の地面が透き通っているように見えたのです。それは、底まで凍りついた湖の上に立っているような感じでした。草も石も地面も透明になり、その背後に深い深い空間が地球の中心まで届いているのが感じられました。目を上げると、小さな平原の周囲を囲む山並みが、やはり透明になって見えていました。それだけではありません。その透明な風景の背後に、同じような風景が無数に重なって見えていたのです。二つの鏡を向かい合わせに立てると、互いの中に互いが映り込んで、お稲荷さんの鳥居のように重なった無数の鏡の形が見えますが、ちょうどそれと同じように、透明な山の向こうに、同じような形をした山がはるか奥の方まで無数に重なって見えていたのです。そしてそのとき、私はなぜか、この重なり合った風景の奥行きが、時間の奥行きを示しているのだと直感したのでした。

やがて風景が元の姿に戻ったとき、私はまた子供の手を引いて歩き出しました。長い時間がたったように感じていましたが、実際には数秒くらいのものだったのでしょう。妻たちと私たちとの距離は、5メートルほどひろがっただけでした。私はゆっくりと歩きながら、いま見た光景を思い起こし、人間の意識と時間感覚の関係について考えをめぐらしていました。
 「いま私が手を引いている息子にとって、時間とは何だろうか。たぶん、彼はまだ『きのう』という言葉も『あした』という言葉も理解できないにちがいない。」

一歳半の子供にとっては、時間とは現在を中心としたほんの数時間の範囲のことではないでしょうか。けれども、子供が成長するにつれて、この範囲は急速にひろがっていきます。子供はやがて「きのう」や「あした」を理解するようになり、「今年のクリスマス」とか「来年の夏休み」といったことを考えられるようになっていきます。「大きくなったら何になるの」と聞かれる度に、時間感覚は10年先、20年先までひろがっていきます。大人になれば、30年先、50年先が視野に入ってきます。やがて「人生の終わり」も見えるようになり、還暦を過ぎれば、人生を出発点からの距離ではなく、ゴールまでの距離で計るようになってきます。

このように私たちの時間感覚は、私たちが成長し意識がひろがるにつれて、ひろがっていきます。あるいは、時間感覚のひろがりそのものが、意識の成長なのだといってもよいのかもしれません。

私はときどき、自分の意識が一万二千年前までひろがっているのではないかと、感じることがあります。といっても、具体的に前世の何かを思い出したというわけではありません。私の意識はこんな具合です。たとえば、銀座の街角で喫茶店に入って、コーヒーを飲みながらガラス窓を通して表の人通りを眺めているとします。いつもではありませんが、ときどき、突然ふっと「ああ、一万二千年ほど前、アトランティスでもこんな風にコーヒーを飲んでいたなあ」というような感傷が湧いてくることがあるのです。それは、どちらかといえば甘いノスタルジイのような感じで、仕事で長い旅を続けている人が、仕事が一段落してリラックスした日の夕暮れにふと遠い故郷を思い出している、というような気持ちです。

アトランティスというのは、紀元前四百年頃のギリシャの哲学者プラトンが、その著書の中に、エジプトの神官から伝え聞いた話として書いた伝説の古代文明です。それによれば、昔この地球の上にはアトランティスと呼ばれる高度に発達した文明があったが、いまから一万二千年ほど前に、神の怒りに触れて、あるいは何か文明の機器の使い方を誤ったために、大地震が発生し、海の中に沈んでしまったのだ、ということです。西洋ではたいへん有名な伝説で、まじめにアトランティス探しをするひとも現代まで絶えたことがありませんが、いまだにその痕跡は見つかっていません。正統派の科学者たちはそんなものはなかったと主張しています。私も、アトランティスが実在したかどうか知りませんし、私がアトランティスにいたことがあるような気分がするからといって、それが、私が本当にアトランティスにいたという証拠になるわけでもありません。単なる幻想だと考える人もあるでしょう。空想小説の読みすぎだと思われる方もあるでしょう。私自身のエゴと理性も、私の心の中でそう叫んでいます。

けれども、私にとって重要なのは、アトランティスが実在したかどうかではありません。アトランティスに私がいたという考えを違和感なく受け入れる状態に、私の心があるということが重要なのです。

私は、この地球の上に何百回も生まれ変わって生きてきたと感じています。このような考えが体になじんでくると、この世界の中のさまざまな人間の営みが、全部自分自身のことであるかのように思えてきます。私が学生の頃、うたごえ喫茶というのがはやっていました。学生たちは学校帰りに薄暗い喫茶店に立ち寄っては、見知らぬ仲間たちと一緒にロシア民謡の「ともしび」などを歌ったものでした。そして私には、この歌の背後にあるドラマのすべてが自分のことであるかのように思えるのです。私は戦地へ赴いた恋人を想って窓辺にたたずむ若い乙女であり、故郷に残した乙女への想いを胸に秘めつつ戦場に散る若者であり、そしてその若者を撃ち殺す敵の兵士でもあるのです。この地球の上で無数のドラマが演じられてきました。生と死、正義と陰謀、愛と憎しみ、喜びと悲しみ、怒りと恐れ、栄光と屈辱、・・・数え切れないドラマを通して、人類は生命のありとあらゆる側面を体験してきたのです。それが、人間がこの世に存在する意味だと、私は考えています。

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(聖書、ヨハネによる福音書、3章16節)

これは、新約聖書のヨハネによる福音書にある有名な言葉です。ここに語られている「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉は、「キリストを信じたら永遠の命がもらえる」という意味に理解することもできます。けれども、私はそうは考えません。

もし神が「キリストを信じたら永遠の命をやるぞ」と言っておられるのだとしたら、神は人間と取引をしていることになります。人間の側からすれば、これは究極のご利益信仰にほかなりません。なぜなら、永遠の命をもらうこと以上のご利益は考えられないからです。

けれども、神は人間と取引はされません。人間の創造主そのものである神には、人間と取引する必要などないからです。本当は、永遠の命はすでに私たちに与えられているのです。旧約聖書の創世記第1章にあるように、神は人間を含めてすべてのものをつくられ、それをよしとされたのです。もし神が全能であり、そして、愛に満ちた存在であるならば、神は完全な人間をつくったはずです。人間でさえ、自分のつくるものに精魂を傾け、すこしでも完全に近いものをつくろうとするではありませんか。神は完全な人間をつくり、それに永遠の命を与えました。なぜなら、簡単に滅びて消え去ってしまうようなものは完全とはいえないからです。私たちはいまも完全な人間であり、永遠の命を持ち続けているのです。それは、第1部、第2部で述べたように、私たち人間は肉体ではなく、霊的存在であるということです。

けれども、いくら私たちが永遠の命を持っていても、そのことを知らずにいて、永遠の命を生きようとしなかったら、永遠の命は私たちの体験の中に現れることはできません。それはちょうどだれかが私の預金通帳に百億円を振り込んでくれたようなものです。私がそのことを知っていれば、私はそのお金を引き出して自由に使うことができます。けれども、もし私がそのことを知らなかったら、あるいは知っていても、それを自由に使ってよいのだと信じられなかったら、私はそのお金を使うことができません。私は百億円の預金通帳を握りしめたまま飢え死にするかも知れないのです。

人間は、永遠の命を持っていても、そのことを知らず、教えられても信じようとしません。そのために永遠の命を経験することができないのです。「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」というのは、信じる者はだれでも永遠の命を体験することができるという意味なのです。
 永遠の命を信じるというのは、単にそれを話として本当だと思うことではありません。それは、意識の中心を肉体から霊性の方へ移すということです。永遠の命の本質に沿って生きるということです。永遠の命を前提にした生き方をするということです。

けれども私たちは、どうしても肉体の命の方が気がかりです。永遠の命といっても、やっぱり肉体は死ぬのではないか、と思う人があるかもしれません。もし私たちが本当に霊性を回復したら、肉体も死ななくなります。私たちは、死を通過せずに、自由自在に肉体を脱いだり着たりすることができるようになります。それまでは意識を一生懸命霊性の方に保っているつもりでも、肉体は死ぬかも知れません。けれども永遠の命を信じる人は、肉体の死を経験しても、肉体を超えた生命を実感し、生死を超えた意識を持って生きることができます。

それだけではありません。永遠の命を感じて生きるようになると、肉体としての生き方そのものが変わってきます。私たち人間は、だれでも死を恐れ、長生きを願っています。けれども一方で実は、死を前提にした生き方、もしいつまでも死が訪れてこなかったら困るような生き方をしているのです。あなたがもし今から2000年も生き続けるとしたら、あなたは今の生き方を続けますか。西洋には「さまよえるオランダ人」という伝説があります。神を呪ったために死ぬことができなくなって、いつまでも地上をさまよい続けているオランダ人の伝説です。神を呪ったために死んでしまったというのならわかりますが、神を呪ったために死ぬことをゆるされなくなったというところに、この伝説の深い洞察があります。人間は死を恐れると同時に、死を待ち望んでいる生き物なのです。

もし人間が肉体として永遠に生きるようになると、その生き方は決定的に変わらざるを得なくなります。よく考えてみれば、人間社会のあらゆる制度が人間は死ぬものであるという前提のもとにつくられていることがわかるはずです。けれども、ここでは一つのことだけお話します。

それは、あらゆることについて自分で責任を取らなければならなくなることです。日本人は先送りが得意であるといわれていますが、日本人に限らず人間はだれでも、困ったことがあると先送りしようと考えます。西洋にも「時間がすべてを解決する」ということわざがあります。古代のユダヤには五十年ごとにくるヨベルの年という習慣があって、そのときにはあらゆる借金が帳消しになったそうですが、死というのは究極のヨベルの年です。どんなに恐ろしい借金取りでもあの世まで追いかけてはきません。けれども、死ぬことができなくなったら借金取りから隠れる場所がありません。自分がまいた種は、自分が刈り取る以外に道はないのです。

借金のような負の部分だけではありません。自分が学び成長するという局面においても、自分で進んで動くのでなければ何も起こらなくなります。いま私たちは時間の流れに押されて年を取っていきます。じっとしていようとしても、止まっていることができません。その結果否応なしに、私たちは学びと成長の流れに引きずり込まれていきます。けれども私たちが永遠に生きるのであれば、年を取ることもなく、食べるために無理やり働かなければならないということもなく、時間は無限にあります。自分から動きだすのでなかったら、百年でも千年でも同じ状態にとどまっていることができます。すべての点で、自分の状態を決めるのは自分であるという完璧な自己責任の世界になるのです。

人間が永遠の命を持っているなんてとても信じられない、という人もいるでしょう。信じられなくても結構です。ここでちょっと遊んで見てください。「もしも、私が(あなた自身のことです)百億年も生きている存在であって、地球の上で何度も転生を繰り返したのであり、その前には、どこかほかの星やほかの銀河系でさまざまな人生を生きてきたのだとしたら、いま私はここで何をしているのだろうか」と考えてみてください。「永遠の存在である私が、この地球に何をしにきたのだろうか」と考えてみてください。お金持ちになるのでもない、有名になるのでもない、肉体の快楽を追い求めるのでもない、よいことをするのでもない、まして、悪いことをするのでもない、・・・地球の社会のあらゆる善悪や欲望の価値判断を超えた、あなたという存在の意味が見えてくるのではないでしょうか。
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