魂のインターネット

神と人間


多くの宗教が神についてさまざまな観念を生み出してきました。あるいは、神についてのさまざまな説明をつくり出してきました。それにより、人はそれぞれ神について異なった考えを持っています。最近では、このように「神」という言葉に特定の宗教に付随した観念がまつわりつくのを嫌って、「ワンネス(全一であること)」、「大いなる一」、「大いなる存在」、「大いなるすべて」などと新しい呼び方をする人たちも増えています。けれども、どんなに言葉を新しくしても、いずれそれらの言葉も手垢がついて汚染されて行くことは眼に見えています。必要なことは言葉を取り替えることではなく、私たちの意識を変えることです。神というのは人間が実際に体験することのできる現実であって、人間が生み出した単なる観念ではないということを理解し、絶えず実際に神を体験することを心がけることです。そのような意味で、本書ではあえて古くから使われている「神」という言葉を使いつづけることとします。

ジョエル・ゴールドスミスという人は、「神について人間が抱く観念はすべて誤りである。なぜなら神はすべての観念を超えているからである。」といいました(ジョエル・ゴールドスミス、神を識る瞑想の法、服部比佐治訳、教文館)。神について正しい観念というものはありません。神についての正しい説明も正しい定義も不可能です。けれども人間が神との関わりを持とうとするなら、神についてまったく観念を持たないわけには行きません。それは私たち人間の意識と行動の方向付けをするために必要なのです。何も観念を持たなかったら方向付けができません。神に近づくことも遠ざかることもできなくなってしまいます。神に関する観念というのは地図のようなものです。目的地に着いてしまえば地図はいらなくなります。同じように、人間が神とのつながりを確立してしまえば神についての観念は不必要ですが、それまでは神の観念を必要とするのです。

「神はすべての観念を超えている」というのは、神についてどんな観念を持とうとも、それは神とは関係がないということです。神についてどんなに誤った観念を持っていても、本当に神との接触を得たときには、それらの観念は自動的に修正されて行きます。したがってある意味では、神についてどんな観念を持っていても心配しなくていいのです。けれども、神の本当の姿からあまりにもかけ離れた観念を持っていると神に近づくのに妨げになります。また、実際に神に触れたときのショックが大きくなりすぎます。したがって、できるだけ神に近づくのに邪魔にならない、むしろ神との接触を助けてくれるような観念を持つことが望ましいのです。

以下に述べるのは、私が最も適切であると考える神についての観念です。あなたの持つ観念がこれとまったく同一である必要はありません。神について正しい観念はないと知りつつ、これと類似の観念を持ってください。そして、観念にこだわるのはほどほどにしておいて、実際に神との接触を得るにはどうしたらよいのか、という方に注意を向けてください。

神は存在の根源です。存在するすべてです。存在そのものです。神以外には何ものも存在しません。神は純粋の意識です。したがって存在するのに時間も空間も必要としません。時間や空間は、私たち人間の心の中にある幻想に過ぎません。神はどこにいるかとか、神はいつから存在するかというような質問は無意味です。神には大きさも形もありません。形のあるものにはかならず外側があります。けれども神以外には存在するものはないのですから、神の外側というのはありません。したがって神には形がありません。神はただ存在するだけです。存在とは何かと問うのも無意味です。神が存在なのです。存在という言葉は人間にとって最も根源的な言葉です。ですからここで使うのです。神が定義できないように、存在も定義できません。定義するためには他の言葉を必要とするからです。定義はできなくても、人間は存在という言葉を直感的に理解します。それで十分です。「神以外には存在するものは何もない」ということだけ覚えてください。

神には如何なる性質もありません。したがって、神を「これこれのものである」と記述することはできません。神は「無」です。なぜなら、神の中ではあらゆる性質が溶け合っているからです。神以外には何も存在しないのですから、逆にいえば存在するものはすべて神の一部です。したがって神の中にはあらゆる性質が含まれています。神の中にあるのは、人間が善いと思うものばかりではありません。善と悪、光と闇、生と死、愛と憎しみ、怒りとゆるし、その他ありとあらゆるものが神の中に存在しています。プラスの電気とマイナスの電気を一つにすれば、打ち消しあって消滅してしまいます。それと同じように、神の中にはありとあらゆるものが溶け合っている結果、すべての性質が打ち消しあって「無」になっているのです。それは現代の物理学が解明した「真空」に似ています。真空は何もない空間に見えますが、そこからプラスの電気を持った粒子と、マイナスの電気を持った粒子が同時に発生します。これを対発生(ついはっせい)といいます。ゼロがプラスとマイナスに分かれることによって、両方が認識されるようになるのです。けれども二つあわせるとゼロであるということには変わりがありませんから、二つの粒子がぶつかれば、それらは互いに打ち消しあってまたもとの真空に戻って行きます。神も同じです。神の中ではあらゆる性質が打ち消しあって無になっているのですから、そこからあらゆるものが対発生してきます。善と悪、光と闇、喜びと悲しみ、あらゆるものが生み出されてきます。神は無限の多様性を生み出す「無」なのです。

神は純粋の意識です。したがって存在するものは意識だけです。神の中で溶け合って無になっているあらゆる性質は、神の意識の中にあります。それが認識されない間は無です。けれども神が自分の意識の中に光を認識したとき、光と闇が対発生します。なぜなら光を認識するということは、光でないものを認識することと同じだからです。これが神の創造です。創造されたものは神の意識の中にあります。私たちは神でないものがたくさん存在していると思われる世界に住んでいます。かえって神の方がどこに存在するのかわからないと思っています。それは、神によって創造されたものはすべて神の意識の中にあるからです。大きな建物の中にいれば建物の姿は見えないように、神の意識の中からは神の姿は見えません。神の外側というのはありませんから、「神がそこにいる」というような形で神を認識することは決してできないのです。

神は自らの意識の中にある無限の多様性のすべてを認識しています。それは、認識した結果を知っているという「静止した」状態ではなく、むしろ認識するプロセスを続けているという方が適切です。神はまるでコンピュータに使われる半導体のダイナミック・メモリに似ています。半導体のメモリには、スタティック・メモリ(静的記憶装置)とダイナミック・メモリ(動的記憶装置)があります。スタティック・メモリというのは記憶すべき内容を一度書き込むといつまでもそのまま記憶していますが、ダイナミック・メモリは絶えず自分自身の内容を自分自身に書き込むという動作を繰り返しています。神が何かを知っているというのは、このようなダイナミックなプロセスが無限に続いているということです。たとえば、神が「愛」を知っているということは、神の意識の中で「愛」のあらゆる姿が無限に描き続けられているということなのです。神は人間的な感覚でいう時間を超越しているので、このことは、あらゆる愛の姿が現在すでに存在するということでもあり、また、無限に新しい姿が現れてくるということでもあります。

神は、このような無限の認識の実行手段として、自らの意識の中に個別的具体的な認識のプロセスを無数に生み出しました。この「個別的具体的な認識のプロセス」の一つ一つが、霊的存在としての私たち人間なのです。私たちはふつう、認識するということは、認識するものとされるものが別々のものとして、すなわち「他者として」、向き合うことだと考えますが、神の意識の中における認識はすべて自分自身を体験することです。なぜなら、神には他者というものが存在しないからです。したがって、神の認識のプロセスそのものである私たち霊的存在はすべて、自分自身の意識を体験するという形の体験をします。人間の作家が自分の内面にあるものを文章という形で表現するように、私たち霊的存在は、自分の意識の内面の中の無限の多様性に具体的な形を与え、自分の意識の中でそれを描きます。そしてそれを、自分の意識の中で自分自身として体験するのです。私たち人間は、神の意識の中で無限の絵を描きつづける神の絵筆であり、その絵を眺める神の目であり、そしてその感動を味わう神の心なのです。

霊的存在はすべて神の分身であり、神の性質を受けつぎ、神の生命である永遠の生命を受けついでいます。このような神の分身としての性質を霊性といいます。私たちは、人間が本来このような霊的存在であったことを忘れています。それを思い出すのが霊性回復の旅です。
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