魂のインターネット

潜在意識のわな


私たちはふつう自分の周りにある「外界」を観察して、そこから「自分の住んでいる世界はこんな性質の世界だ」という結論を引き出し、それによって生きて行く方策を立てようと考えます。けれどもこれが「わな」になって、私たちは潜在意識に強くとらえられてしまうということを前章でお話ししました。

このわなは、三つの部分からできています。第一の部分は、潜在意識が自分の中にある観念や信念を反映した「外界」をスクリーンにつくり出す部分です。第二の部分は、私たちの顕在意識が、その「外界」と信じ込んでいる世界の中で肉体を通して生活した結果、「世の中はこういうものだ」という結論を引き出す部分です。結論といっても、いつも論理的に導き出される結論ばかりではありません。あるときは思いがけない事件に出会って、「なぜ自分だけがこんな目に会わなければならないのか」と怒りを感じます。あるときはいやな人に出会って、その人に怒りを感じます。このようなときは「怒り」が結論なのです。その他、私たちが「外界」に対して反応したすべてが「結論」となります。第三の部分は、この「結論」が再び潜在意識の中に書き込まれる部分です。この三つの部分がぐるぐると回り続けることによって、潜在意識にある信念はどんどん強化されて行きます。私たちは、外界を見てそこから結論を引き出すことを当然と思っていますから、このわなに気づくことはありません。私たちは自分の潜在意識の中に何が入っているかを知らないので、いつも世界は不意打ちと偶然に満ちており、自分すなわち顕在意識の意志や望みとは違うことばかり起こると感じます。

このわなから逃れる方法は、この三つの部分が回り続けるのを断ち切ることです。そのためにできる行動は一つしかありません。第一の部分と第三の部分は自動的に起こるプロセスですからどうすることもできません。ただ一つ自由になるのは第二の部分だけです。つまり「外界」を見てそこから結論を引き出すということをやめることです。「外界」で起こることに自動的に反応するのをやめ、それが自分の心の中のどんな意識を反映しているかを調べ、その意識を解消するように努力するのです。そうすると次第に外界に起こることが変わってきます。

それは決して簡単な道ではありません。なぜなら、私たちの心はほとんど全部潜在意識化しているので、何かが「外界」に起こっても、それに対応する意識が自分の中にあるとはとても思えないからです。けれども、「外界」というのは、私たちの意識の中を目に見える形に表してくれる巨大な鏡です。それによって、私たちは自分の意識の中に何があるかを知ることができ、またそれによって、霊性回復の過程をどの程度進んだかを知ることができるのです。そして、私たちが「外界」に直接反応するのではなく、「外界」を鏡にして自分の心に取り組むとき、私たちは霊性回復に向けた潜在意識のクリーニングをすることができるのです。

私たちの心は、霊的世界のインターネットから情報を取り入れますが、それをスクリーンに描き出すのは自分自身です。それはちょうど自分で描いた絵に取り囲まれて暮らしている画家のようなものです。次に何の絵を描こうかと考えたとき、この画家は本を読んだりテレビを見たりして題材を探します。そしてその中から自分の気に入った題材を拾い出し、自分の描きたいように絵を描きます。それを部屋の周りに一杯ならべてこの画家は暮らしています。もしこの画家が自分の部屋の雰囲気が気に入らないとしたら、どうしたらいいでしょうか。もしそこにいやな雰囲気の絵があるとしたら、その絵を取り除いて違う絵をならべればいいのです。それを描いたのも自分なら、そこに置いたのも自分です。その画家が「自分は暗い絵は嫌いだ」と思っているのに、どうしても暗い絵ばかり描いてしまうというのなら、自分の心の癒しを考えた方がいいのではないでしょうか。

私たちはみんなこの画家のようなものです。心の中の「仮想体験スクリーン」に描く世界の姿は全部自分で描いているのです。私たちがそのことを信じることができない理由は二つあります。一つは、スクリーンの絵が潜在意識の影響を強く受けているために、それが自分の意識を反映しているとは思えないからです。潜在意識というのは、私たちが自分の意識をまともに見ることができなくて、これは私の意識ではないといって隠してしまった部分です。したがってその中にこんなものがあるよ、と示されても、私たちは自分の意識の中にそんなものがあるとは思っていません。私たちの意識は現在ほとんどの部分が潜在意識化されていて、自分の意識だと思っている部分は非常にわずかな部分だけになっています。潜在意識の中にあるものは決して「わるい」ものばかりではありませんが、私たちは霊性を忘れたときに、自分の意識の大部分を潜在意識にしてしまい、自分でそれを管理する責任を放棄してしまったのです。スクリーンをつくるのは意識の全体ですから、顕在意識もいくらかは影響しているはずですが、潜在意識の方が圧倒的に大きいので私たちはそこに現れているものを理解できないのです。

第二の理由は、「仮想体験スクリーン」に描かれる「外界」の姿が自分の意識の反映であるとすると、「外界」に対して自分が責任を負わなければならなくなるからです。私たちは「外界」が自分とは関係なく存在しており、自分はその世界の「被害者」であると考える方が楽なのです。「外界」をつくっているのが自分なら、だれにも文句が言えなくなります。そこに何が見えていようとも、それを「見ている」責任は自分にあることになります。その責任に応えるのは、結局自分の中の意識に取り組むことなのですが、もともと「見たくない」ので隠した意識ですから、それに取り組むのはとても苦痛なのです。そこで、どうしても「外界」は自分とは関係ないと思いたいのが私たちの本音です。

このような二つの理由で、私たちは「外界」が自分の意識の反映であるとは思いたくないのです。そのために、昔からの大広間型世界像にこだわり、外界は客観的に存在するものだと思いたがるのです。けれども、私たちは一人一人が自分の心の中にスクリーンを持っており、そこに思い思いに自分の「外界」を描いています。あなたのスクリーンの絵をあなたが描きなおしたとしても、だれにも迷惑をかけることはありません。ほかの人がみんな地獄に住んでいるときに、あなたひとり極楽に住むこともできるのです。もちろんそうなると、あなたは他の人と話が合わなくなるかも知れません。私たちは、思い思いに自分の世界を描いていますが、他の人とのコミュニケーションを通じてその世界があまり食い違わないように調整しています。他の人との話をあわせるために、できるだけ同じ世界を描くように無意識のうちに努力しています。けれども、はっきりと自分の意識に責任を持ち、自分の描きたい世界を描けるようになった人は、無意識のうちに他の人と話をあわせるようなことはなくなります。他の人と話が合わなくなった分だけ、他の人に与える影響力は強くなります。そして、他の人が霊性回復の道を歩むのを本当の意味で助けることができるようになるのです。
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