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神は取引をしない


私たちは神について考えるときにも、知らず知らずのうちに、人間界の常識を当てはめて考えてしまいます。そのような常識の一つに、「取引」という考え方があります。

取引とは普通の商行為のことです。ものとお金を交換する、お金とサービスを交換するのが本来の取引です。けれども、もっと広い意味に考えることができます。よいことをしたら褒美を与える、悪いことをしたら罰を与える、というのも一種の取引です。攻撃されたら仕返しをする、というのも取引です。目には目を、歯には歯を、というのも取引です。一言でいえば、取引とは「ギブ・アンド・テイク」のことです。あれとこれを交換しましょう、という考え方です。人間の世界はバランスで成り立っています。

そこで人間は神とのあいだでも取引をしようと考えます。神も取引をするだろうと考えるのです。よいことをしたら、死んでから極楽にいける、というのは取引です。熱心に教会に行けば神様が喜ぶだろうと思うのも取引です。悪い人間には神様が罰を与えるはずだと考えるのも取引です。ご利益信仰といわれるものはすべて神と取引をしようとしているのです。多くの宗教が、自分の宗教を信じたら天国にいけるが、他の宗教を信じたら地獄に落ちる、というような考えを持っています。これも取引です。一生懸命お祈りすれば、神様は聞いてくださるだろうというのも取引です。よいことであれ、悪いことであれ、人間が何かをしたことに対して、神から何かの結果が返ってくることを期待しているなら、それはすべて取引です。

けれども、神は取引をしません。取引をする必要がないのです。神は人間の創造者です。人間は神の思考です。人間は神の分身です。人間は神自身の一部なのです。だれが自分自身と取引をするでしょうか。だれが自分のつくったものと取引をするでしょうか。

神は褒美を与えることもなければ、罰を与えることもありません。私たちのすることに何かの結果が伴うならば、それはすべて私たち自身の行為が招き寄せたものです。神は人間に与えるべきものはすべて与えてあります。何かをしたから褒美を下さいといっても、もう与えるものは何もないのです。神に何かをねだっても無駄です。それはすべて与えてある、という返事が返ってくるだけです。与えてあるのだから、それを使いなさいといわれるだけです。

私たちは、もらったクリスマスプレゼントを大事にしまい込んで開けてみようとしない子供のようなものです。そのうちに何がどこにしまってあるかもわからなくなってしまいました。開けてみないのですから、何をもらったかもわかりません。

霊性を回復するとは、神からもらったすべてのプレゼントを開けることです。
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