魂のインターネット

他人の姿


私たちは人と出会って互いに向かい合ったとき、直接相手を見ていると思っています。けれども本当は、自分の心の中の仮想体験スクリーンに描き出された相手の分身の姿を見ているのです。

たとえばいま、私がだれかと会って話をしているとします。相手が見ているのは、霊的存在である私の本当の姿ではなく、私がホームページに提供している情報を読んで、それをもとに自分で描いた私の分身の姿を、自分のスクリーンの上で見ているのです。私が見ているのも、相手の本当の姿ではなく、その分身を、しかも私が自分で描いた相手の分身を、見ているのです。このような状況はテレビ電話で会話をするひとたちに似ています。互いに会って直接話しているような錯覚を覚えますが、それぞれが自分の電話機の上に映し出された相手の映像を見ているだけです。

霊的インターネットの中につくられる私の分身は一つではありません。仮想社会の中で私を見ているすべての人が、それぞれ自分のスクリーンに私の分身の姿を描きますから、私の分身は私を見ている人の数だけ存在します。これらの分身の姿は全部同じというわけではありません。それは見る人が自分で描いて見ているのですから、みんなそれぞれ違う姿を描いて見ています。

たとえば、テレビ電話で会話をしているとき、もし電話機の調子が悪くて相手の顔色が青白く見えたとすると、私たちは自分の電話機の調子が悪いとは思わず、相手の身体の具合が悪い、と思うかも知れません。同じように、私たちの心のスクリーンに映る相手の姿がゆがんで見えていても、私たちがそのことに気づくことはほとんどありません。自分のスクリーンに見えている相手の姿が、相手の本当の姿だと思い込むのです。

もし私たちが互いに相手のホームページを完全に読むことができるなら、私たちのあいだのコミュニケーションは完全なものになるでしょう。けれども前章に述べたように、現在の人間のレベルでは、相手のホームページのごく一部しか読むことができません。そのうえ、読んだものを自分の意識で勝手に加工して、それをもとに相手の姿を描きますから、互いのあいだで話の食い違いが絶えず起こり、人間同士のあいだの不信を増大させるもとになっています。私たちは互いに相手の本当の姿を見てはいないということを理解しておくことが必要です。

では本当の姿はだれが見ているのでしょうか。自分自身で見る姿が本当の自分であるかというと、そうでもありません。私たちは潜在意識にいろいろのものを持っていますが、潜在意識というのは自分で見ることを拒否している部分ですから、自分自身でも自分の本当の姿を見てはいないのです。

私たちの本当の姿を見ることができるのは、何ものをもとがめない存在、すべてを知っており、すべてをゆるし受け入れることのできる存在、すなわち神だけです。
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