聖書の新解釈

B29 無差別の愛


あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書5章43−48節


きょうの聖書は前回と同じ箇所です。
前回、神は完全であり、神によって創られた私たち人間も完全であるという話をしました。これは信仰の原点であり、土台であり、基本です。「神は完全であり、全知・全能・全愛である」ということを徹底的に信じてください。そうすれば、その神によって創られた世界や人間は当然完全であるはずである、ということが自然に信じられるようになります。
 
けれども、私たちが実際に経験する世界は、不完全極まりないものです。このギャップは、古くから宗教や哲学の悩みの種でした。けれども、それは単に、私たちが、神が創られた世界を見ていないということを示しているにすぎません。私たちは自分自身についても神が創られたままの姿を見ていません。そのために、私たちは本来の完全な姿を表わすことができないのです。

私たちは、なぜ、神の創造されたままの世界を見ることができないのでしょうか。それは、私たちが世界を見る目、つまり心、がゆがんでいるからです。したがって、心のゆがみを正せば、神の創造した世界がそのままに見えるようになります。これが「悔い改め」ということです。
 
悔い改めというと、いままでが間違っていたという語感がありますが、私たちは間違って心がゆがんでいるわけではありません。なぜなら、私たちも、神から創られた完全な存在だからです。完全な存在が間違うことはありません。では、なぜ私たちの心がゆがんでいるのでしょうか。それは、私たちがわざわざ自分の心をゆがめて、闇の存在する世界を体験することを選んだからです。それは、からだに錘をつけて海底を散歩しようとする人に似ています。その人たちが海底に沈んでいるのは錘をつけているからですが、間違って錘をつけたわけではないのです。
 
私たちは、どのようにして心をゆがめたのでしょうか。それは「善悪の判断」をすることによってです。私たちは、あるものを善、あるものを悪と名づけ、一方を受け入れ、他方を排斥します。悪の存在を認めることによって恐怖が生まれ、恐怖が疑いを生み、疑いが怒りを生みます。これが、私たちの見る世界が汚染されていくプロセスです。創世記のエデンの園の物語で、神は「善悪を知る木の実を食べてはならない」と命じたと伝えられていますが、実際、「善悪を識別すること」が神の創造の世界から離れる出発点だったのです。
 
したがって、神が創造したそのままの世界へ帰る道は「善悪の判断をしない」ということしかありません。これが「無差別の愛」です。私たちは「差別」することによって闇を作り出し、光と闇の交錯する「美しい」世界を体験してきました。けれども、いま、私たちは再び光の世界へ帰りたいと思ってここに集まっています。それならば「差別しない」とはどういうことかを学ばなければなりません。
 
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」とイエスは言われました。これが無差別の愛です。善悪を判断しない愛です。イエスは私たちにも無差別の愛を実践するようにと命じておられます。

けれども、私たちはすぐに「そんなことはできない」と思ってしまいます。それには、二つの原因があります。ひとつは「愛する」ということを誤解しているからです。愛とは何かということについては、B5 神の正義と人の正義A8 愛のエネルギーなどを読んでください。もうひとつの原因は練習をしないからです。無差別の愛を憶えるのは、水の中で呼吸する方法を憶えるようなものです。練習しなければうまくはなりません。きょうは、無差別の愛の練習をしてみましょう。

目を閉じて、自分のからだに意識を向けてください。あなたは自分のからだをどのように感じているでしょうか。自分のからだは素晴らしいと思っているでしょうか。多くの人が自分のからだと敵対関係にあります。背が低い、顔がよくない、頭が悪い、太りすぎだ、痩せすぎだ、皺が増えた、髪の毛が白くなった・・・病気や障害がなくても、多くの人が自分のからだに不満を持っています。また多くの人が、年を取ることに不安を持っています。癌にかかるかも知れない、寝たきりになるかもしれない、ボケるかも知れない、・・・と怖れています。
 
これはすべて自分のからだに呪いをかけているようなものです。もしこのような思いを毎日持ち続けていたら、やがて、実際にそのようになっていきます。何であれ「持続する思い」というものは祈りであって、いずれ形の世界に現れるようになります。イエスが「あなたの信じるとおりになる」といわれるのはこのことです。したがって、悔い改めることが必要になります。悔い改めとは、心の中にある想念や感情を、現実化しても困らないようなものに取り替えていくことなのです。
 
自分が自分のからだに対してどんな気持ちを抱いているかわかったら、そのことをそのままにしておいて、目を閉じて心の中でそっと「この素晴らしいからだを、心から愛し、受け入れます」と言ってみてください。どこか心の片隅がむずむずしませんでしたか。はじめは何か居心地のわるい気持ちがするかもしれません。心のどこかが抵抗しているかも知れません。心にもないことを言っていると思うかも知れません。その気持ちを味わいながら繰り返してみてください。
 
今度は、そのようなことを言われたからだの気持ちになって、その気持ちを味わってみてください。繰り返し何度も言ってみてください。そのたびに気持ちが揺れ動くのがわかるでしょう。やがて、からだが微妙にリラックスしてくるのを感じることができるかも知れません。
 
注意していただきたいのは、自分のからだのどこかに「よいところがある」と考えて、それをほめるのではないということです。よいところを見つけてほめると、それは「善悪を判断する」というパターンに戻ってしまいます。よいことも悪いことも関係ないのです。ただ無条件に、自分のからだを素晴らしいといって受け入れる、それだけです。それを繰り返し、繰り返し続けてください。毎日何百回も、思い出したらいつでも、自分のからだに話し掛けてください。何度も何度も繰り返していると、居心地の悪い感じが消えていきます。その様子に気づいてください。
 
うまくいけば、やがて、あなたは自分のからだと和解するということがどんなことか、わかるようになってきます。理由のない平和を心の中に感じるようになるかもしれません。からだが微妙に元気になり、生き生きしてくるかも知れません。
 
何も起らなくても、もともとです。これを続けていれば、すくなくとも、善悪を判断しないということがどんなことかわかってきます。ありのままに受け入れるということがどんなことかわかるようになってきます。これが他人だったら、あんな人をありのままに受け入れるなんて絶対にしたくないと思うこともあるでしょう。けれども自分のからだなら受け入れて損することはありません。
 
このような練習を続けることで、もし「無差別の愛」ということにすこし慣れてきたと思えるようになったら、たとえば、自分がいちばん嫌っている人などを思い浮かべて、同じことをしてください。別に本人の前に出て、好きでもないのに無理をして、「あなたを愛しています」などという必要はありません。ただ、心の中だけで、すればいいのです。心の中で「あなたはすばらしい」と言うたびに、胸がうずいたり、脇腹が痙攣したりするでしょう。そのいやな感じをしっかり受け止めて味わってください。そのような感じを持つのが良くないといっているのではありません。人を嫌っているというのは、そういう感じがするものなのです。その感じを正直に味わいながら、何度も何度も繰り返してください。やがて、その感じが癒されてくるのが、自分でわかるようになります。そして、いつかは、その人と再び会ったとき、自分が以前とは違って感じることに気づくでしょう。
 
私たちは、この物質世界において、善悪、好悪、損得・・・など、さまざまな価値判断に基づいて、人や出来事を選別し、あるものを受け入れ、あるものを拒否しようとします。それが、私たちを物質世界につなぎとめているのです。それは、海底散歩をする人がつける錘のようなものです。「無差別の愛」はその錘を解放します。そうしたら、錘をはずした人のからだが自動的に浮き上がるように、私たちは神の国に自動的に引き入れられていきます。「あなた方の天の父の子となるためである」と言われるイエスの言葉に注目してください。「天の父の子となる」ということは、私たちが霊性を取り戻すということなのです。 

2003.7.12 第29回エノクの会
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