聖書の新解釈

B14 愛の本質


翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「いまから後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マルコによる福音書11章12-14節

翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、ご覧下さい。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

日本聖書協会 新共同訳聖書 マルコによる福音書11章20-25節


「実のなる季節ではないのに、イエスがいちじくを求め、実が一つもないからといって、その木を呪われたというのは、奇妙な話である」とある註解書は書いています。多くの人が同じような感想をもたれるのではないでしょうか。愛を説くイエスに呪いはふさわしくありません。いったいなぜ、イエスはこのような奇跡をなさったのでしょうか。
 
この記事は、マタイによる福音書(21章18―21節)にも出てきますが、二つの間には微妙な違いがあります。問題の「いちじくの季節ではなかったからである」という言葉は、マタイによる福音書では省かれています。あまりにも不合理だとマタイは考えたのでしょうか。また、マルコによる福音書では、前半(12―14節)と後半(20―25節)がわかれ、あいだに別の記事が挿入されています。そしてイエスが呪われてからいちじくが枯れるまでに一日の時間が経過したことになっていますが、マタイによる福音書では、イエスが呪われると「いちじくの木はたちまち枯れてしまった」となっています。さらに、マルコによる福音書の記事の終わりにとってつけたように書かれている「赦してあげなさい」という文言もマタイによる福音書にはありません。ある註解書にははっきり「この言葉がここに出てくる文脈的意味は不明である」と書かれていました。マタイもこの言葉をここに置いておく意味がないと考えたのでしょうか。
 
私が調べた二つの註解書はいずれも、イエスの呪いを「実を結ばないイスラエル」(神に従わないイスラエル)に対する怒りと結び付けて解釈しています。この記事を福音書に収録したマルコやマタイにはそれぞれの思惑があったでしょうし、註解書のような解釈を一概に否定するつもりはありませんが、私は、この記事はまったく別の角度から読むべきであろうと考えています。
 
この記事を読み解くキーワードは三つあります。それは、「いちじくの季節ではなかったからである」と「赦してあげなさい」という二つの言葉、それにマルコによる福音書の記事で前半と後半の間に一日の間があることです。いずれも、マタイによる福音書とマルコによる福音書の記事が微妙に食い違っているところです。
 
「イエスは空腹を覚えられた」というのはイエスの側の都合です。「いちじくの季節ではなかった」というのはいちじくの側の都合です。イエスは、いちじくの都合を無視して、自分の都合だけをいちじくに押し付けて怒りました。これはたしかにイエスにはふさわしくありません。けれども、考えてみれば、これは私たちが日常的にやっていることではないでしょうか。イエスは、私たちがふだんやっている通りのことを、ここでやって見せたのです。
 
すべての人にはその人の季節があります。すべての人に、葉を茂らせる季節、花を咲かせる季節、そして実を結ぶ季節があるのです。けれども、私たちはそれを無視して「いい年をして、あの人はこんなこともできない」とか「あれでよく会社がつとまったものだ」などといって怒ります。イエスは、私たちがそのような行動を取ったときに、何が起こるかを実演して見せたのです。
 
イエスが呪われたとき、すぐには何も起こりませんでした。一行はその場を通り過ぎました。ところが、翌日、同じ場所を通った弟子たちは、いちじくの木が枯れているのを見て驚きます。この一日という時間は微妙な時間です。もしこれが一年だったら、イエスの呪いといちじくが枯れたこととの間の因果関係に弟子たちが気づくことはなかったでしょう。
 
私たちが日常的に行なっている呪いの効果も遅れて現われます。そのために、私たちは自分が何をしたかということに気づきません。イエスは、呪いとその効果の間の時間を縮めて、弟子たちが気づくように仕向けたのです。それと同時に、呪ったときすぐにはいちじくが枯れなかったことによって、呪いとその効果との間に時間があるために、私たちが自分のしたことに気づかないのだということも見せているのです。
 
この個所は、イエスの力のすごさを示していると解釈する人もあるようです。けれども、イエスの祈りの力だけがすごいのではありません。イエスは「だれでも」と語っています。だれでも「祈る」ことによってイエスと同じ力を働かせているのです。ただ、私たちは自分が何を祈っているかも知らず、その祈りがどのような効果を生んでいるかにも気づいていないのです。
 
祈りというのは「願いごと」ではありません。人が心の中に持っている思考のエネルギーの持続のことです。もし私たちが、一定の思考を、意識の全体を使って(潜在意識も全部含めて)、しかも感情を込めて持続させるなら、山に動けと言っても動く、というのがイエスの言われたことです。そのようなことが起こるのは、私たちが見ている世界が、実は自分自身の意識の中だからです。
 
私たちは神様に「あれを下さい、これを下さい」と言って願い事をするのが祈りだと思っています。 けれども、私たちはそれよりもはるかに強力な祈りを日常的に行なっています。それが怒りであり、憎しみであるのです。怒りや憎しみは強い感情を伴っていますから、感情の伴わない口先だけの祈りより、はるかに強力なのです。
 
だからイエスは続けて言われました。「立って祈るとき、誰かに恨みを持っているなら、赦してあげなさい」と。私たちは自覚していないときでも祈っています。私たちの持っている思考・感情のすべてが祈りなのです。けれどもまた、自覚的に祈ることもあります。「立って祈るとき」とは、そのような自覚的な祈りをさしているのだと思います。このとき、もし私たちが心の奥深くに恨みや怒りの感情をもっているなら、それもいっしょに祈りに加えてしまうことになります。口先で祝福の言葉を語っても、潜在意識の中に呪いがあったら、そのほうがはるかに強力なのです。
 
呪いのエネルギーは相手だけでなく、自分自身をも破壊します。イエスは言われました。「そうすれば、天の父はあなたがたの過ちをも赦してくださる」と。実際には天の父が罰したり赦したりされるわけではありません。私たち自身の呪いのエネルギーが自分を傷つけるのです。「呪えば呪われ、赦せば赦される」というのが神の国の真実です。
 
創世記に、神は創造の過程を一つ終るごとに、「よし」と見られた、と記されています。愛とは、相手の存在を肯定することです。相手の全体を肯定し、受容して「よし」という、それが愛です。神はすべてを創造して「よし」と言われました。その意志によってすべては存在しています。だから「神は愛である」といわれるのです。神が否定されたものは存在できません。神が「よし」と言われたものしか存在できません。したがって、存在するものはすべて、神に愛され、ゆるされ、受け入れられているのです。
 
呪いの反対は「祝福する」という言葉だということを以前にお話ししました。私たちが強い感情を持つのが怒るときだけというのは不幸なことです。怒りと同じくらい強い感情を持って、人と世界のすべてを祝福してください。
 
すべてのものに、すべての人に、固有の季節があります。実のない季節には実はならず、花のない季節には花は咲きません。そのすべてを見通し、受け入れ、肯定しておられるのが神の愛です。そして、イエスは同じことを私たちにも求めておられます。すべての人にそのひと固有の季節があることを受け入れてください。それが私たちの愛なのです。

2002.4.20 第14回エノクの会
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