聖書の新解釈

B21 心の清いものは神を見る


心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書5章8節

実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、
    『我らは神の中に生き、動き、存在する』
    『我らもその子孫である』
と、言っているとおりです。

 日本聖書協会 新共同訳聖書 使徒言行録17章27−28節


パウロは、アテネの人たちに向かって古代の詩人の言葉を引用し、「私たちは神の中に生き、動き、存在している」と言いました。私たちが「神の中に存在している」ということは、私たちは神に取り囲まれているということです。上を見ても下を見ても、前を見ても後ろを見ても、そこには神がある、という状態なのです。けれども、ふだん私たちは、自分の前や後ろに神があるとは思っていません。
 
いま私が「神がある」という言葉を使って、「神がいる」と言わなかったことに注意してください。「神がいる」というと、神がたとえば人間のような形をして立っているように感じます。けれども私たちがそのような形で神を見ることは決してできません。もし私たちがそのような形で神を見るとしたら、私たちは「神の外」にいることになります。けれども、パウロが言ったように、「私たちは神の中にいる」のです。
 
神を大きなビルディングであると考えてください。私たちはその建物の中にいます。建物の中からは建物の形は見えません。建物の形を見ようとしたら、建物の外に出なければなりません。けれども、私たちは神の外に出ることはできません。なぜなら、神の外側というものはないからです。神の外側があるということは、そこに神以外のものがあるということになります。けれども根源的な存在はただ神のみであって、神以外には何も存在しません。したがって神の外側というものはないのです。
 
私たちが神を見ることができないのは神の外に出ることができないからです。けれども、建物の中にいる人は建物の壁や天井を見ることはできます。では、私たちは、そのような仕方で神を見ることができるのでしょうか。もしできないとしたら、それはなぜでしょうか。
 
「心の清い人は神を見る」とイエスは言われました。「心の清い人」というのはどんな人のことでしょうか。
私たちは普通「心の清い人」を「よい人」という意味に解釈していると思います。それも間違いではありませんが、ここではもう少し違った意味をお話します。「心の清い人」は、英語ではthe pure in heartと書かれています。清い(pure)という言葉は、不純物がないということです。「清い」の反対語は「濁った」ですが、濁った水には泥やごみのような異物の微粒子がたくさん浮遊していて、そのために水の透明さが失われています。清い水には、異物の微粒子がないので、水は透き通っていて、水底の様子がよく見えます。心の清い人というのは、心の中に余分な雑念を持っていない人という意味です。では、この余分な雑念とは何でしょうか。
 
神を大きな建物に譬えましたが、この建物に多くの部屋があり、その部屋の中に、私たちがひとりずつ住んでいると考えてください。私たちは、その部屋に思い思いの内装を施して自分の気に入るような住み方をしています。私たちは壁にも天井にも壁紙を貼って建物の生地が見えないようにしました。床にもじゅうたんを敷き詰めました。それからたくさんの家具や調度品を入れ、シャンデリアをぶら下げ、お気に入りのアイドルの写真やポスターを壁に貼りならべ、友達からもらった旅行のお土産の人形や装飾品で、壁も床も埋め尽くすほどになっています。朝から晩までCDでバックグラウンドミュージックを流し、壁掛けテレビには癒し系の風景画を映写し、そして枕もとのテレビでサッカーの試合を見たり、大河ドラマを見たりして一日を過ごしています。
 
これがいまの私たちの心の中の様子です。この部屋に住んでいる人が、建物そのものをまったく見ていないことに注意してください。この人に見えるのは自分で集めた家具や装飾品や壁紙です。これと同じように、私たちの心は、さまざまな観念や知識や、心配や不安や喜びの感情などであふれかえっています。私たちは神の中に住んでいながら、自分の回りを、自分の意識の中に抱え込んださまざまな信念や記憶で埋め尽くしてしまったので、神が見えなくなっているのです。
 
「心の清い人」というのは、この部屋の中の家具や装飾品やその他のあらゆるものを捨て、壁紙もはがしてしまったような人のことです。一体そのような人には何が見えるのでしょうか。そのような人に見えるのは建物の素肌です。人間が作った建物の素肌は、ざらざらしたコンクリートの壁で美しくも楽しくもありませんが、むきだしの神の壁はこの上なく美しく快適です。それに一度でも触れたことのある人は、どうしていままでこのようなものを覆い隠して見えなくして暮らしていたのだろうと思います。

私たちは神の壁が見えないように、壁紙を張ってしまいました。それは「物質世界」という壁紙です。この壁紙は魔法の壁紙です。壁の一部にだけ貼ってある間はただの壁紙ですが、壁一面に貼り付けたとたん、そこは本物の物質世界に変ってしまうのです。その世界は無限に広く、そこから出る出口がなくなってしまいます。その世界から出るためには、壁紙をはがすほかはありません。けれども、その世界に入っている人は物質世界が壁紙だとは思わないので、はがすことが難しいのです。
 
前回B20 二人の主人という話で、神を信じることと、物質世界を信じることは両立しないということをお話しました。それは私たちが物質世界の壁紙に囲まれている間は、神を見ることができないということです。

壁紙をはがすということは、物質世界を無視するということではありません。物質世界が霊的存在である私たちにとって、本当の現実ではないということを知るということです。たとえば私たちは映画を見て、楽しくなったり、悲しくなったり、怖い思いをしたりします。けれども私たちは映画の物語が現実ではないことを知っています。現実ではないと知っていても、私たちは映画を見て楽しむことができ、また知識や感情の豊かな世界を体験することができます。物質世界も同じです。物質世界は霊的な見地から言えば現実ではありませんが、映画と同じように、霊的存在が豊かな体験をするための世界なのです。

映画を見てそれが本当の現実だと思っている人は、映画と正しく関わりあっているとはいえないでしょう。同じように、本当に存在するものは神と神が創った世界だけであることを徹底的に信じた時にはじめて、私たちは物質世界とも正しく関わることができるようになるのです。

2002.11.23 第21回エノクの会
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