聖書の新解釈

B30 無償の愛


「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書6章1−4節


イエスは「施しをするとき人目につかないようにしなさい」と言われました。いつの世にも、これみよがしに善行をする人たちはいますが、「あなたたちは、そのようなやり方を真似しないようにしなさい」というのがイエスの教えです。

けれども、私は皆さんにこう言いたいと思います。
「自分の善行の結果を、自分で見ようと思わないようにしなさい」。
 
私たちは「愛する」というと、何か相手のためになることをしてあげるという、「目に見える行い」を思い浮かべます。けれども、ほんとうの愛は、相手に「A8 愛のエネルギー」を送ることです。「行い」は、そのときそのときの状況によって、必要なこと、あるいはできる範囲のことををすればよいのです。

「行い」が伴っていなくても、「愛のエネルギー」を送ることには意味があります。けれども、愛のエネルギーが伴わない「愛の行い」はすべて偽善です。行いがあってもなくても、絶えず「愛のエネルギー」を周りの人に送ってあげてください。
 
「愛のエネルギー」を送るためには、自分の心の中を愛のエネルギーで満たしてください。神から「愛のエネルギー」が送られてきて、自分の胸一杯に広がるのを想像してください。それが、胸の中にあふれ、体中にしみわたるのを感じてください。胸の中が熱くなるのを感じてください。それから、それがあなたの体からあふれ出て、必要な人の所へ流れて行くのを想像してください。それで十分です。あなたが感じても感じなくても、愛のエネルギーは神によって相手のところへ運ばれていきます。
 
ただ想像するだけというのは力がないように思うかも知れません。けれども、神の世界、霊の世界というのは純粋の意識だけの世界なのです。そこでは想像することが現実です。ただし、想像するときに、あなたの心のすべてをその想像に集中してください。 「力がない」と私たちが感じるのは、私たちの心が分裂していて、心のごく一部分でしか想像していないからです。他の部分では、違うことを考えていたり、正反対のことを考えていたり、「想像だけしたって無駄だ」と考えていたりしているからです。

イエスは「内部で分裂する国は立ち行かない」といわれました(マタイによる福音書12章25節)。それは、私たちの心の状態を指しているのです。私たちは、いつも心が分裂していて、ばらばらになっています。自分の心の90パーセントは潜在意識あるいは無意識と呼ばれる状態になっていて、自分で自分の心の中を知ることができない状態になっています。表層意識で一生懸命「こうなりますように」と祈っていても、潜在意識の奥のほうでは「そんなことがあるわけはない」と思っていたりするのです。そのために、私たちの祈りも想像も実現しないのです。

もしも私たちの心が完全にひとつに統一されていて、心の100パーセント(意識も無意識も含めた全部)がひとつのことを集中して想像したら、「この山に向かって、『立ち上がって海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」とイエスが言われたように(マルコによる福音書11章23節)、祈り求めることはすべてそのとおりに実現するようになります。
 
イエスは「互いに愛し合いなさい」といわれました。それは、このようにして愛のエネルギーを互いに送りあうようにしなさいということです。けれども、その際に、愛のネルギーが何をするかについて注文をつけないようにしてください。それが「無償の愛」です。
 
無償の愛とは「お返しを求めない」ということです。では、人に愛のエネルギーを送ったとき、「最大のお返し」は何だと思いますか。それは、送った相手が、こちらの思い通りに幸せになってくれることです。自分にとって物質的には何の得にもならないことでも、人の幸せを願って何かをして、人がそのとおりになってくれたら、私たちは自分も幸せを感じることができます。

けれども、あえて私は申し上げます。「ひとに愛のエネルギーを送ってあげたとき、その効果を自分で見ようとしないようにしなさい」。聖書の言い方を真似るならば、「人に施しをするときには、自分の目に見せないようにしなさい」ということです。
 
昔こんな話を読んだことがあります。ある老婦人が人生を終ろうとしていました。その婦人を愛する家族の者たちが集まって、一生懸命にお祈りをしました。婦人はいまにも息を引き取りそうになっていましたが、家族の祈りで目を覚まし、みんなにお礼を言いました。それから、また目を閉じて眠りました。しばらくすると息もかすかになっていきます。家族の者たちがまた一生懸命に祈ると、婦人はまた目を覚まします。そんなことを何回かくりかえしたあと、とうとう目を覚ました老婦人はこういいました。「私が神様のところにもうすぐ着きそうになると、あなたたちが一生懸命呼び戻すので、またここに帰ってきてしまうの。もう祈るのをやめてちょうだい」。そこで家族が祈るのをやめたところ、老婦人はすぐに安らかに息を引き取った、というのです。
 
老婦人のために祈るというのは美しいことです。けれどもそれに付随して、こちらがよいと思う「特定の結果」を要求すると、それは婦人に対してこちらの価値観を押し付けていることになります。「死ぬのはよくない」「生きていて欲しい」というのは、残される者の価値観です。けれども、老婦人の願いは、人生のなすべきことを終えたいま、やすらかに神様の御許へ帰りたい、ということなのです。
 
では、どうすればいいのでしょうか。愛のエネルギーを送るとき、そのエネルギーがどういう結果を生み出すかについて、注文をつけないことです。愛のエネルギーを送るときには、心のの中での次のように言って下さい。「私はあなたにこのエネルギーを贈ります。あなたはもし使いたかったら、このエネルギーを自由に使ってください。これを使って、元気になって、もう一度この世に戻ってくることもできます。けれども、これを、楽にあの世に行くために使ってもいいのです。あなたの好きなように使ってください。」
 
愛というものは、決して、こちらがよいと思う価値観を相手に押し付けることではありません。他人が見ればとんでもないと思うような人生を選択する権利を、すべての人が持っているのです。愛というのは、その自由を相手に対して徹底的に認めることです。そして、相手が選ぶ人生を、できるだけスムーズに、しかも深く、しっかりと生きることができるように、愛のエネルギーでたすけてあげよう、というのがほんとうの愛です。
 
人間の目に見える人生には、さまざまな姿があります。あんな苦しい人生は、何とかして助けてあげたい、と思うのも貴い愛情です。けれども、ほんとうの愛情は、試験にチャレンジする息子から試験問題を取り上げることではありません。試験に合格できるように、問題を乗り越えることができるように、援助するのがほんとうの愛です。人は、高く飛び上がろうとすれば、深く膝をかがめなければなりません。沈むのはよくないといって、かがむのを止めさせたら、いつまでたっても高く飛び上がることはできません。
 
人生というのはプロセスです。目先のひとつの断面だけをみるのでなく、ひとりひとりに固有の人生のプロセスがある、と考えてください。他人には伺い知ることのできないその人だけの深い人生の意味を、その人がしっかりと生きることができるように、一切の紐をつけずに「愛エネルギーを送って」ください。それが無償の愛ということです。

2003.8.23 第30回エノクの会
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