聖書の新解釈

B13 エゴを統合する


狼は子羊とともに宿り、豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。

日本聖書協会 新共同訳聖書 イザヤ書11章6−9節  


今回はエゴについての話の最終回です。
 
エゴはただ悪いだけのものではなく、それ自身の役割と働きをもった心の機能の一つです。ただ私たちは、自分の心の一部であるエゴを自分でコントロールできていない、というところに問題があるのです。
 
私たちの意識は現在バラバラにこわれています。私たちの意識の大部分は潜在意識になっており、自動装置であるエゴは勝手に動いており、エゴに対するコントロールもできません。実は霊性を失うとは、このように意識をバラバラにして、コントロールできない部分を増やしていくことだったのです。したがって、私たちが霊性を回復するということは、このように分割されてバラバラになった心を統合し、一つにまとめていくことです。エゴも押さえ込んだり切り捨てたりするのではなく、自分の心の正常な機能の一つとして統合していかなければなりません。
 
エゴを統合するための第一歩は、エゴを敵視しないということです。私たちはエゴというのは悪いものだと教えられているので、自分の中にエゴがあってはならないと思い込んでいますが、そのようにエゴを敵視すればするほど、エゴはますます悪くなります。なぜかというと、もしエゴが悪いことをしているなら、それはエゴに愛エネルギー(B5 神の正義と人の正義を参照)が不足しているからですが、非難するということは相手から愛のエネルギーを奪うことですから、エゴはますます愛エネルギーの不足の度合いが大きくなります。したがって、エゴは敵視すればするほど強くなります。しかもエゴは自分自身の心の一部なのです。切って捨てるわけには行きません。このため、自分のエゴと戦って勝てる人はいないのです。
 
エゴを統合するためには、エゴと戦うのではなく、エゴを愛してください。エゴを愛するということは、何でもエゴの言うとおりにするということではありません。エゴが何を言うかに関係なく愛エネルギーを与えるということです。心の中でエゴを抱きしめてあげてください。エゴに愛エネルギーが流れ込んでエゴの温度(B5 神の正義と人の正義を参照)が上がってくれば、エゴの言うことが変わってきます。
 
今年の初めから私の家に、生後半年くらいの子猫が居候を始めました。もとからいる猫が警戒するので一つの部屋に閉じ込めていますが、子猫はひとりにしておくと淋しいのでニャーニャー泣き喚いて餌を欲しがります。そして食べ過ぎておなかを壊してしまいます。けれども、黙って抱いてやれば泣き止んで膝の上で眠ります。泣いているときに餌を欲しがっているのは事実ですが、餌をやる必要はないのです。本当は愛を欲しがって泣いているのです。

エゴも同じです。エゴがさまざまな欲求を出してくるとき、その欲求のすべてを満足させてやる必要はありません。エゴを抱きしめてあげればいいのです。けれども私たちは、子猫の抱き方は知っていますが、エゴを抱きしめる方法を知りません。このため、いつまでたってもエゴに振り回されているのです。
 
私たちは、何でもよいか悪いかという善悪や価値の判断をする癖がついているので、エゴは悪いものではない、というとすぐに、エゴはよいものである、と思われる方がいるかもしれません。けれども、そうではありません。重要なことは、いかなる価値判断もしないということです。
 
「あの人はある行動をする」というのと「それがあの人の欠点だ」というのは違います。北風が寒く南風が暖かいのは自然の性質です。誰も「寒いから北風は悪い風だ」などとは言いません。同じようにエゴがある行動を取るのはエゴの本来の性質です。よい、悪いという判断を離れてものごとを見ることができるように、あなたの心をトレーニングしてください。
 
エゴは自動操縦装置です。自動操縦装置に目的地を指示するのは操縦士の責任です。もし操縦士が行き先を知らなかったら、自動操縦装置に目的地を指示することはできないでしょう。同じように、エゴにあなたの人生の目的を指示するためには、あなたの人生の目的がはっきりしていなければなりません。あなたの人生にできるだけ高い目標を持ってください。できれば、霊性回復をあなたの人生の究極の目標にしてください。なぜなら、この地球に生まれている人にとっては、霊性を回復すること以上に高い目標はないからです。
 
霊性回復に向けてあなたの意識が集中していれば、そのことがエゴに浸透していきます。エゴは次第に自分の目標を変更し始めます。エゴの仕事は肉体を維持することですが、それは魂のもつ目標を地上世界に肉体を通じて表現することだからです。エゴは、肉体とそれに伴う感覚や注意力や判断力をコントロールする機能としては非常に強力です。したがって、エゴに高い目標を伝えることができれば、霊性回復のための非常に強い味方を得ることになります。
 
そして、目標を教えるのと同時に、「人間は物質ではない」ということを繰り返しエゴに教えてください。エゴ自身も物質ではありません。エゴの存在目的は物質である肉体を維持することにあるのですが、エゴ自身は物質ではありません。エゴは、私たちが物質世界に関わるときに必要な機能を自動的に果たすために、心の機能の一部が特殊化されたものなのです。
 
イザヤは、主が地上に現われて世界を治めて下さる日を待ち望んで、冒頭に掲げた聖句をうたいました。けれども、主の平和が地上に訪れる前に、私たちの心に主の平和がなければなりません。なぜなら私たちが見る世界は、私たち自身の意識の中だからです。

聖なる山とは、私たちの意識のことです。それは自分の心の中のことであると考えてください。聖なる山では、獅子と牛が共に藁をくらい、幼な子が毒蛇にたわむれても害を受けることがないとイザヤはうたいました。シンボルとしてみれば、獅子は力の象徴であり、牛は母性の象徴です。幼子は純真さをあらわし、蛇はこの世の智慧を示します。人間の心の中にはさまざまな側面があり、強さもあればやさしさもあり、固さもあればやわらかさもあります。そのすべてが必要なのです。強さを捨ててやさしさだけを残そうとするのは、裏のない紙を求めるようなものです。
 
私たちが霊性を回復するときには、エゴがもつさまざまな機能を捨てるのではなく、それらをすべて聖なる山である一つの意識に統合し、エゴが高次の意識と共存し、調和し、協力しあうようになっていくのです。

2002.3.16 第13回エノクの会
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