ミーティングルーム
ここは、聖書をテーマにしたおしゃべりのコーナーです。私が書いたものに関する疑問や質問、あるいは、ふだんから疑問に思ってたいたことなど、聖書に関する話題なら何でもかまいません。ご自由に書き込んでください。
ただし、私はいろいろな人がいろいろな考えを持っているのが正常だと思っているので、どの意見が正しいかというディベート(論争)はしません。「どの意見が妥当だと思うか」ということは、それぞれの方が自分で判断してください。
「私に向かって主よ主よというものが皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行うものだけが入るのである(マタイ7章21節)」とあるように、私たちが聖書を「正しく」解釈するかどうかは問題ではないのです。まして、それを言葉でどう表現するかは問題ではないのです。一人一人が、どのような生活を送るか、どのように生きているかということが問題なのです。
いろいろな人のいろいろな考えを参考にしながら、自分の立つ足場を固めていただけたら幸いです。
質問やご意見は投稿受付にメールで送ってください。
投稿は時間を追って読めるように、古いものから順に掲載します。10行ごとにブロックを分けますので、日付を頼りに検索してください。
最初の三つの質問(1〜3)は、ブログ「愛と光の星・・・地球」にコメントとして投稿されたものです。ブログのコメント欄で話をするには大きすぎるテーマなので、こちらに移しました。
ここは、聖書をテーマにしたおしゃべりのコーナーです。私が書いたものに関する疑問や質問、あるいは、ふだんから疑問に思ってたいたことなど、聖書に関する話題なら何でもかまいません。ご自由に書き込んでください。
ただし、私はいろいろな人がいろいろな考えを持っているのが正常だと思っているので、どの意見が正しいかというディベート(論争)はしません。「どの意見が妥当だと思うか」ということは、それぞれの方が自分で判断してください。
「私に向かって主よ主よというものが皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行うものだけが入るのである(マタイ7章21節)」とあるように、私たちが聖書を「正しく」解釈するかどうかは問題ではないのです。まして、それを言葉でどう表現するかは問題ではないのです。一人一人が、どのような生活を送るか、どのように生きているかということが問題なのです。
いろいろな人のいろいろな考えを参考にしながら、自分の立つ足場を固めていただけたら幸いです。
質問やご意見は投稿受付にメールで送ってください。
投稿は時間を追って読めるように、古いものから順に掲載します。10行ごとにブロックを分けますので、日付を頼りに検索してください。
最初の三つの質問(1〜3)は、ブログ「愛と光の星・・・地球」にコメントとして投稿されたものです。ブログのコメント欄で話をするには大きすぎるテーマなので、こちらに移しました。
番号 |
投稿者 |
内容 |
---|---|---|
1 | 茶 2018/4/13 |
創世記のアダムとイブが、蛇にそそのかされて、神から禁じられていた善悪を知る木の実を食べたことは、神からの分離を象徴しています。 同じように、イエスの十字架も、何かを示唆し、象徴していると思うのですが、今一つ、腹に落ちていません。十分理解できていません。 聖書は、神からの分離から始まり、イエスが十字架にかかり、天に昇り(父のもとに行き)、復活して終わります。 |
2 | 茶 2018/4/13 |
私が、日々の生活において、神からの分離を味わっているのは、明らかです。 あまり周りのせいにはしたくないですが、この世界が、分離の価値観をベースにできているので、いわゆる世の考えに飲まれると、苦しくなります。 この世界は、神から切り離された個人がベースになっていて、この弱肉強食の世界で、自分の力で、食物を漁り、食っていかないといけないのだから、当然苦しいです。 個人というのは、神から分離して、自分が何者なのか、どこにいるのかもわからないのだから、苦しくなって当然、悩んで当然、迷って当然です。 でも本当は、私たちは、この世に属するものではないといいます。霊はもともと永遠という別の世界にいて、そこから、個人という寸劇をみているようなものだといいます。 ですから、この人生という寸劇自体が夢といえば夢なのですが、そうかといって、肉体を持つ以上は、それを養っていかないといけませんから、厭世的になり、世とかかわりを持たず、生活し続けるわけにもいきません。 そこがジレンマです。 |
3 | 茶 2018/4/13 |
でも、もし、それを終わらせたいなら、イエスがされたように、自分のくびきを負い、十字架を担い、道を歩むことは、この世界と関わり、なおかつ、乗り越えていくための、ひとつの答えなのだと思うのです。 世からは、嘲りを受けたり、叩かれたり、虐められたり、指を指され、晒しものにされたりするでしょう・・・。 でも、もし、イエスに倣うならば、私たちが必ず通らないといけない道のような気がします。 十字架とは何でしょう? カルマでしょうか? 私たちが日々取り組まないいけない、個人的責任でしょうか? |
4 | dawn- watcher 2018/4/14 |
十字架とは、「肉体が自分である」という意識を捨てることである・・・というのが私の考えです。 肉体が自分でないとしたら、自分はいったい何なのでしょうか? 「永遠の命」・・・それが答えです。 私たちは、物質世界が客観的に存在する「実在」であると考え、その中に存在する「肉体」という物体が人間(=自分)であると考えています。 けれども、人間は肉体ではありません。不生不滅の永遠なる意識・・・それが人間なのです。 そのことを徹底的に意識に叩き込み、自分=肉体という意識(考え、感覚、想念、感情)を完璧に捨ててしまうこと・・・それが十字架の意味するところだと、私は考えています。 この後にもう少し解説を続ける予定ですが、もし質問があったら、遠慮なく投稿してください。 |
5 | dawn- watcher 2018/4/16 |
十字架の意味について、新しい記事をアップしておきました。B38 十字架の叫びを御覧ください。 |
6 | 茶 2018/4/17 |
十字架とういのは、肉体が十字架にかかること、つまり、物質世界からの解放や『肉』的な心からの脱却のことを象徴的に表わしているのですね。 私たちは、善悪を知る木の実を食べることによって、自意識が芽生え、神から分離し、エゴが芽生え、良い、悪い、正しい、間違っている、という二元論に落ちました。 そして、神を忘れてしまい、自己の力のみ、エゴのみに頼って生きるようになりました。その結果として、物質だけが極端に発達し、物質世界だけが真実だと思い込むようになってきたのだと思います。 ですから、十字架を経るということは、『肉』に頼る生き方や、物質だけを真実だとする生き方ではなくて、『神』に頼る生き方や、霊性を真実とする生き方に変わっていくことを、象徴的に表しているのですね。 つまり、十字架を経て、私たちは、霊性を回復するのですね。 20代の頃のように、何か目標なり夢なりをかかげて、その目的に向けて、奮闘努力して達成する、ということがなかなか、出来にくくなっています。魂がそうさせてくれません。肉的思いをベースにして、生きにくくなっています。(あんまり常識的な生き方が出来ていません(苦笑。) その結果、魂の暗闇というような道を歩んできたのですが、霊性の回復、という意味では、いつかは通らないといけない道だったのかもしれません。それが、今生であったと、感じております。 とはいえ、40代ですので、まだ人生の旅路は残っていると思っておりますし、何か、自分を通して、神の目から見て幸あることが展開していったら良いな、と感じております。 霊性を回復していれば、自分の内側にある、神的な部分に聞くことで、答えを得られるわけですが、神は日本語で語りかけてくれるわけでもなく、今一つ、神の答えを聞けているのかどうか、よくわからない、というのも正直なところです。 その結果、外に答えを求める、ということをしてしまいがちです。自分の進路やなすべきことに対して、神から答えを受け取る、ヒントのようなものはございますか・・・? アダムとイブが分離以前に感じていたように、いつも神とともにいて、いつも神と道を歩んでいて、いつも神に包まれている、という実感が、もう少し味わえたら、と感じております。 |
7 | アンジュ翠 2018/4/18 |
茶さん、十字架が意味するのは二元論の限界、つまりは「ある価値観に基づいて定めた法によって裁かれた、罪と罰である」と考えます。 また、イエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘まで上り刑死した後に復活を遂げたという現象が象徴しているのは二元論の超克、つまり「ある法によって裁かれた結果としての罪と刑罰を受け容れる、無条件の愛である」と考えます。 私たち人間は社会を形成して以来、共通の価値観を形成し、その価値観に基づいて不文律を含めて様々なルール、法を定め、法を逸脱した行為者を裁き、その行為が罪と認められる場合は罪の重さに応じて罰を与え、社会を円滑に営んできました。 ところが、ある集団の中では正義であるとされる行為も、違う価値観を持つ別の集団では悪であると裁かれることもあります。そのため、人類は有史以来、争いや紛争が絶えず起きてきたとも言えます。 ここに二元論の限界が明確に見えます。 イエスを架刑に掛けるよう裁いたのは悪法かだったかもしれませんが、ある集団の中では正義と定義された法でした。イエスが甘んじて架刑を受け容れた根底には、無条件の愛があると私は考えます。 二元論を超克できるのは、あらゆることに一切の判断や批判を加えず受け容れる、無条件の愛です。 すべての物事に優劣、正邪、善悪、白黒の評価をつけず、すべてを受け容れる時、あらゆる物事の価値は同等になります。世界にはグレーの濃淡があるだけになり、人はありのままの自他をただ観ているだけの観察者になります。 イエスが神の国に入るには幼子のようになれというのは、あらゆる価値観を捨て、あらゆる判断や評価を捨て、無条件の愛の状態になることだと私は考えます。 イエスは奇跡の復活を遂げたのも、パンや魚を増やすという奇跡を起こしたのも、イエスが無条件の愛であったからでした。 茶さんが二十代から何か目標を掲げて達成する生き方をして来られて、ある程度上手く行かれていたかもしれませんが 四十代に入って、そういった肉体、三次元物資社会を中心とする二元論に基づいた生き方に行き詰まりを感じて、霊性を中心とした生き方を模索しておられるようです。 <6茶: 外に答えを求める、ということをしてしまいがちです。自分の進路やなすべきことに対して、神から答えを受け取る、ヒントのようなものはございますか・・・?> おっしゃる通り、外に答えを求めるのは物資社会を中心とした、二元論に基づいた生き方では主流だったと思われます。 神からの答え、霊性を主とした生き方の答えを受け取るには、二元論を超克する、そのためにはあらゆる価値観を捨て、幼子のようになれというのがヒントだと思います。 何らかの価値観に沿うための「ねば、べき」という縛りから自分自身を解放して自由になった時、神の子として奇跡が連発する生き方をしていることでしょう。 |
8 | dawn-watcher 2018/4/18 |
<6茶: 外に答えを求める、ということをしてしまいがちです。自分の進路やなすべきことに対して、神から答えを受け取る、ヒントのようなものはございますか?> 神からの答えを受け取るためのヒントとしては、B7 神の声を聞くを読んでください。 |
9 | 茶 2018/4/20 |
回答をくださってありがとうございます。 潜在意識の雲が、神(※1)の光を遮るため、神の声がわからないのですね。 潜在意識の中には、おそらく、今生だけの記憶だけではなくて、過去生の記憶も含まれているのでしょうね(※2)。 私はキリスト教徒ではないですが、よく、外国のクリスチャンが、主にこう言われた、と、あたかも会話しているように話す方がおられるのですが、神と親密な関係を気づいているようで、うらやましくも感じます。 >>神の声を聞くためには、つねに、神の声を聞きたいという思いを持ち続けてください(B7 神の声を聞く)。 ということですので、もっと神と個人的な親密な関係を持てるように、願っていようと思います。 >>もし、神の声があからさまな声として耳に聞こえたりすることばかりを求めていると、それは神の声に対する依存症を引き起こすことになります。・・・人間は決して他に依存してはなりません。神にさえも依存してはなりません。神が自分の外におられるように感じ、その神が自分の人生についてのこまかな指示を与えてくれるように考えているなら、それは神に対する依存症です。・・・浄化された自分の中で神が働かれることに信頼してください。 確かに、神に依存すると、あたかも神が何でもやってくれるように感じ、停滞してしまうように感じます。そこが、難しいところです。かといって、自分だけの力に頼ろうとすると、視野狭窄で、無力感を感じます。神に頼るということは、依存することとは違うのですよね? 神との正しい関係を築きたいのですが、神が働かれるのを信頼するのは、依存ではありませんか? 神への思い違いを修正したり確認したりしたいのですが、もし感じるところがあれば、またよろしくお願いします。 ※1神に関しては、魂の親、くらいの感覚で思っています。親としての唯一の神がいて、いわゆる宗教上の神々は、神の働きの多面性があらわれたもので、本来は唯一の神のみが存在する、くらいに考えております。 ※2キリスト教の伝統的な解釈では、輪廻転生は教えていないようですが、キリスト意識(真我・大我・実在)は輪廻しないが、個人意識(偽我・小我・非実在)は輪廻する。つまり、個人意識は、キリスト意識が見ている夢のようなものだと考えております。個人意識が積み上げたものがカルマであり、良きにつけ悪しきにつけ、過去生から積み上げた膨大なカルマが、潜在意識の中にはあるのだろうと感じております。 |
10 | アンジュ翠 2018/4/20 |
茶さん、以下の問いかけに対して、私の昨年体験して学んだことが少しでもお役に立てれば幸いです。 <6茶:アダムとイブが分離以前に感じていたように、いつも神とともにいて、いつも神と道を歩んでいて、いつも神に包まれている、という実感が、もう少し味わえたら、と感じております。> 実はここ数年来、私たち家族は不幸と言われる出来事に連続して遭遇し、すべてを失うというような事態に陥りました。 社会的には失敗とか挫折と定義分類されるでしょう。 もちろん私も挫折感を味わい、どうして良いかわからない絶望感に襲われました。 昨年の2月末に、ついに神に宇宙に全面降伏しました。何故ならもがいてももがいても自分では何一つできないとわかって観念し、私のエゴが神、宇宙に降伏したからです。 そこから私には奇跡と思われるような出来事が向こうから起きて来るようになりました。 自分が神の子であると証明されたように感じられました。 実際に私たち家族は人の子によって助けられたのですが、神がその人を通して私たちを助け、私たちは地上で奇跡を体験したのです。私たち家族を助けてくれた人たちは私たちにとって神の使い、天使そのものであり、地上天国が現れたと感じられました。 以前の私は霊性が目覚めて神とともにある、霊的な道を歩むには、何かすべきことがあると想像していました。 ところが、絶望の果てに自分には何一つできないと観念し脱力して全面降伏して初めて、神が奇跡を起こして奇跡が起きて来たのです。 私の場合は自分の背後に常に存在している神とともにあり、自分は神の膝に乗った幼子のように感じられます。 エゴが脱力して神に全面降伏することが、ヒントになると思います。 「ねば、べき」ことは何一つない、自分を含めてすべての人、物事にジャッジをしないこと。 ただプワプワ浮いてる感覚です。 茶さんに伝わると良いのですが。 |
2018年3月15日開設 |