聖書の新解釈

ミーティングルーム 2
ミーティングルーム 2

ここは、聖書をテーマにしたおしゃべりのコーナーです。私が書いたものに関する疑問や質問、あるいは、ふだんから疑問に思ってたいたことなど、聖書に関する話題なら何でもかまいません。ご自由に書き込んでください。

ただし、私はいろいろな人がいろいろな考えを持っているのが正常だと思っているので、どの意見が正しいかというディベート(論争)はしません。「どの意見が妥当だと思うか」ということは、それぞれの方が自分で判断してください。

「私に向かって主よ主よというものが皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行うものだけが入るのである(マタイ7章21節)」とあるように、私たちが聖書を「正しく」解釈するかどうかは問題ではないのです。まして、それを言葉でどう表現するかは問題ではないのです。一人一人が、どのような生活を送るか、どのように生きているかということが問題なのです。

いろいろな人のいろいろな考えを参考にしながら、自分の立つ足場を固めていただけたら幸いです。

質問やご意見は投稿受付にメールで送ってください。



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番号
投稿者
内容
11 サル
2018/5/6
サルと申します。
3年ほど前から、こちらのサイトを訪問させていただいています。

>エゴが脱力して神に全面降伏することが、ヒントになると思います。
>「ねば、べき」ことは何一つない、自分を含めてすべての人、物事にジャッジをしないこと。
>ただプワプワ浮いてる感覚です。

アンジェさんが「10」でこのように書いてくださった感覚を私も少し味わえるようになってきました。

ただ、長続きしません。

というのも、プワプワし始めた、と思ったとたんこんな声↓が私の中から聞こえてくるからです。

「いつも神に頼っていたら、神は迷惑する」
「委ねてばかりで何もしなかったら人としてダメになる」
「他にすべき仕事がたくさんある。早くお祈り終えてね」
などなど。

エゴのすりかえ、罪悪感を持たせる技術にはほとほと感心してします。しかも言葉選びの巧みさ、すばしっこさは、(今、こうして入力しながら)ちょっと笑えるくらいです。

声が“聞こえる”と分かるようになっただけ少し進歩してきたのかなぁと思うのですが。

ふっと気づくことができて、その声も「神様に委ねます」とまかせられることがありますが、返す言葉がなく、もたもたしていて、その声に屈することが多いのです。

そうすると「ほら見なさい!」とエゴは喜びます。

このゲームをやめたい、翻弄されたくない、と心から思います。

↑今も「ほんとに?心から?」という声がしました(笑)。

12 dawn-
watcher
2018/5/6
サルさん、心の声に注意が向くようになり、エゴの声を含めて、内面の声に気づくようになってきたのですね。とても素晴らしいことだと思います。

この時いっしょにいろいろな雑音が入ってくるのもごく自然なことです。誰でも、始めはそうなります。

そのような状態からぬけだすコツは、エゴと同じ土俵で戦わないことです。サルさんが気づいておられるように、エゴに言葉で論争して勝てるひとはいません。なぜなら、エゴというのは自分自身だからです。あなたの手の内は全部エゴに知られています。だから、エゴと同じ土俵=言葉=でエゴと戦って勝てるひとはいないのです。

では、どうするか・・・というと、まず神の声を言葉で聞こうとせずに、ハートの奥のフィーリングを感じてください。エゴよりももっと深いハートの奥に、しんと静まった聖域があるのに気づいてください。優しい光に満たされた、穏やかで、しかも精気に満ちた心の領域にあなた自身を共鳴させ、そのときの気持ちを感じてください。もし、何かをしたいと思ったらそれをしてください。

私たちは、神に祈るというと、神にお願いすることだと考えています。けれども神にお願いする必要はありません。なぜなら、神はあなたに必要なものを最初から知っておられるからです。神はその答えも発信してくださっています。必要なのは、それをあなたが「聴く」ことです。

ただし、それを「言葉」で聞こうと思わないでください。言葉を使うのは理性です。理性はエゴの働きです。したがって、言葉で聞こうと思うと、エゴの土俵にひきずりこまれてしまいます。まず、ハートの奥の波動を直感で感じてください。そこから何かを「しよう、したい」という行動の動機が生まれます。その動機に従って行動してください。理性を使うのはその時です。

すべての行動の動機がハートの奥から来る直感になったら、アンジュさんの言われる「プワプワした状態」になると思います。

13 サル
2018/5/10
dawn-watcherさん、サルです。
回答ありがとうございました。

> まず神の声を言葉で聞こうとせずに、ハートの奥のフィーリングを感じてください。エゴよりももっと深いハートの奥に、しんと静まった聖域があるのに気づいてください。優しい光に満たされた、穏やかで、しかも精気に満ちた心の領域にあなた自身を共鳴させ、そのときの気持ちを感じてください。

この通りにトライしてみたら、「聖域」にたどり着けました。

本当に静かで明るくあたたかで、なつかしい場所でした。

感情は何も浮かびませんでしたが、なぜかその間ずっと涙が流れ続けていました。そこに滞在したのは、時間にしたらほんの数分でしたが、これは長いか短いかということではないのでしょう。

その後はうまくいかないことが多いのですが、それは、ただ私が感じ取れないだけで、今も、これまでも、これからもずっと、私はそこ(聖域)にいる、と分かったので、あせる必要はない、と思いました。

この機会にB11〜B13を読み返してみました。あらためてすばらしい記事だと思いました。ここにすでに答えはあったのですね。

特にB13の「エゴを統合する」で印象に残ったのは、

「エゴはただ悪いだけのものではなく、それ自身の役割と働きをもった心の機能の一つです。」

「私たちはエゴというのは悪いものだと教えられているので、自分の中にエゴがあってはならないと思い込んでいますが、そのようにエゴを敵視すればするほど、エゴはますます悪くなります。」

「エゴは、肉体とそれに伴う感覚や注意力や判断力をコントロールする機能としては非常に強力です。したがって、エゴに高い目標を伝えることができれば、霊性回復のための非常に強い味方を得ることになります。」

以前これを読んだときはピンとこなかったのですが、私が先のスレッドで書いた「エゴの巧妙さに感心する」は、見方を変えれば、エゴは活躍する場所を間違えているだけで、本来の役割を取り戻したら、巧妙さ=すごい働きをしてくれるということなのでしょうか。

これからはエゴにも愛を送ります。

dawn-watcherさん、いつもありがとうございます。

14 アンジュ翠
2018/5/29
サルさんへ

エゴの声を識別してその影響を受けない、プワプワした状態を少しの間感じ取られるようになったのですね。
慣れてくると次第にその時間が長くなってくるものと思います。

> 私が先のスレッドで書いた「エゴの巧妙さに感心する」は、見方を変えれば、エゴは活躍する場所を間違えているだけで、本来の役割を取り戻したら、巧妙さ=すごい働きをしてくれるということなのでしょうか。

エゴは自分が感じている感情にレッテルを貼りたがります。
例えば、「怒り」「憎しみ」「絶望」「悲しみ」、「慈しみ」「喜び」「楽しさ」「希望」などと。

実際に感じているのは心の周波数の変化だけであり、分類出来るような感情は稀ですが、エゴは朝目覚めてから夜眠りに就くまで一日中働いて、せっせと分類してはレッテルを貼り続けます。

そして例えば【「怒り」「憎しみ」「絶望」「悲しみ」はネガティブな感情なので感じない方が良い】と、「怒り」「憎しみ」「絶望」「悲しみ」とレッテルを貼った周波数を感じると自分の意識をそらしたがります。
【ネガティブな感情はストレスの原因なので感じない方が良い】というような、物差し、価値観に基づいて。

その上、【「慈しみ」「喜び」「楽しさ」「希望」】はポジティブな良い感情なので、出来るだけ長い時間味わうようにと、物差しに基づいてコントロールを掛けてきたりもします。

繰り返しますが、実際に感じているのは心の周波数の変化だけで、きっちり分類できるような感情は稀であるのにも関わらず。

こういった感情という心の周波数の変化からもエゴの働きからも解放されて自由になるには、感情という心の周波数の変化もエゴの働きも自分と同一化しないこと、適当な距離を置くことです。

例えば心の周波数が激しく変化したら、そのエネルギーをただ感じることです。
今までは「恐怖」とレッテルを貼ってきた周波数を感じると、エゴは怯えてその周波数をなんとか感じないようにします。
エゴが持っている自己防衛の機能です。

エゴが今の状況から未来を推察して憂えて自分を防衛するための機能です。

この防衛機能は、現在過去未来が直線状に並ぶ時間軸を基にした弱肉強食のサバイバル社会では大いに役立った、優秀な機能ですが

今ここの時間軸を基にした愛一元の社会ではやがて必要が無くなります。

例えば恐怖の周波数を感じエゴが大騒ぎしたら、そのままどっぷり周波数を感じエゴの叫びを聞いてみてください。
15分くらい経つと、周波数は元に戻り、エゴの声も止むと思います。

そうやって周波数の変化をどっぷり感じてエゴの声をしっかり聞く態度を取っていくうちに、どちらとも距離を置けるようになっていきます。

すると、恐怖の周波数を感じながら喜びという相反する周波数も同時に感じていたのだと、自分の心の働きの複雑さに驚くこともあります。

それまではきっとエゴの声がうるさくてネガティブだとレッテルを貼って心の真実の周波数から逃げてばかりで、自分の心の周波数に無頓着だったのですね。

>これからはエゴにも愛を送ります。

はい、今まで自分を守ってくれてありがとうと感謝の言葉を言いたいですね。

15 サル
2018/9/16

「感情は周波数?」と、はじめは違和感がありました。

でもその後、不安や悲しみが湧いてきた時、
「ああ、これは、ただの周波数なんだった」
と思い出すことができ、すーっと頭が冷えて、
感情に溺れずに済みました。

「15分くらいで消える」もやってみて、よくわかりました。
少しずつ時間も短くなっていき、数分でおさまるようになりました。

このワークに慣れて、気づいたのは、ふだん自分はどれほど感情を押し殺しているかということです。

特に憎しみや怒りなど“悪い”と呼ばれている感情は恥や罪悪感とつなげてしまい、一層、自分の中にあると認められず、無いことにしたい、見ようとしないのです。

“良い”と呼ばれる感情(喜び)が浮かぶときですら「思いあがるな、調子に乗るな」とすぐ訂正が入ります。

ですから「感情を持っていいよ」と自分に許可をあたえて、怒りなりを取り出して、目の前に置いてみます。
もちろん初めは落ち着かない。
でも「感情は単なる周波数」とつぶやきながら見ていると、一旦はざわざわとするけれど、次第に落ち着き、波が引くように、霧が晴れるように、水に落ちたインクが溶けるようにゆっくりと私から離れて消えていくのです。

とても楽になります。

今も、ネガティブな感情は、これでもかこれでもか、という程次々たくさん出てきますが(笑)・・・。

ただ、このワークの後は、問題と思っていることが、どうでもよくなってきます。
そして現実に、問題は問題ではなくなっているのです。

それと、少し前のあるテレビ番組で、明治大学杉原教授の錯視アートを知ったことも気づきにつながりました。

●錯視アート
https://www.youtube.com/watch?v=oWfFco7K9v8

●明治大学 杉原厚吉教授
http://www.asahi.com/ad/globalj/meiji/


ふだんの暮らしのなかで私たちが、「これは丸だ」「四角だ」「見えている」「分かっている」と認識していることは、ほぼ間違っているのかもしれません。

人の脳は、うねっていたり歪んでいたりしていても、滑らかな円や直線に見たがるものなのだとか。

たとえ理性では分かっていても、そう見えてしまう。

エゴと同じかもなぁと。

正確ではないちくはぐな見方をして、それに意味づけをして、つまり、怒る必要のないことに怒りを覚え、悲しむ必要のないことに悲しんでいるだけなんだと。
滑稽ですね。

それでも、そのように歪んだ状態でしか見られない中、問題(だと思い込んでいること)を何とか解決すべく、エゴはエゴなりに処理しようとしてくれていたんだなぁと。

そもそも見当違いなので、どうがんばったところで、うまく運ぶことはないわけですけれど・・・

今は、そのエゴなりのがんばりというか無駄な健闘(?)を愛しいと思ったりもするのです。

dawn-watcherさん、アンジェさん、ありがとうございます。

16 dawn-
watcher
2018/9/19
サルさん、

その後の状況をお話してくださって、ありがとうございました。

サルさんは、ずいぶん進歩が早いですね。
















 
2018年3月15日開設
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