聖書の新解釈

B18 信じたとおりになる世界


祈り求めることはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マルコによる福音書11章24節

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

日本聖書協会 新共同訳聖書 ヘブライ人への手紙11章1節


以前に、悔い改めとは自分を悪いと思うことではなく、心の中にある意識、特に潜在意識を入れ替えることだという話をしました。

悔い改めの目的は神を満足させることではありません。神は現在でもすべてを許しておられるのです。人間が悔い改めようが改めまいが、神の愛には何も変りはありません。神はいつでも無条件に人間を愛しておられます。
 
悔い改めの目的は、私たち自身のためです。私たちが、世界と自分の現状に完全に満足しているなら、何も悔い改める必要はありません。けれども、もし満足していない点があるなら、それを変えるには悔い改めるほかはありません。なぜなら、私たちが体験する世界は私たち自身の心であって、それを変えることができるのは自分自身しかないからです。
 
神が人間に悔い改めなさいと奨めるのは、人間がこの理屈に気づかず、苦しみの中にとどまりつづけているからです。「あなたたちが苦しみの世界から抜け出したいなら、あなたたちの心を変えなさい」と言いつづけておられるのです。
 
人間が神のためにできることは何もありません。神の御業はすべて完成しています。すべての信仰は人間のためです。言い換えれば、すべての信仰はご利益信仰です。このことをしっかりと心の底に据えてください。「神を信じるのは正しいことである」と考えていると、「神を信じている私は正しい人間である」というおごりが生じ、そしてひとを裁く結果になり、その裁きの反作用によって自分が裁かれることになります。むしろ「私が神を信じるのは、ただ私の人生をもっと豊かなものにするためだけである」と考えてください。そして神がそれを許しておられることに感謝してください。

イエスは「あなたの信じるとおりになる」ということを繰り返し言われました。この言葉が悔い改めのキーワードです。私たちが体験する世界は、自分の心の中身です。したがって、心の中身が変れば世界も変ります。私たちが現在のような世界に住んでいるのは、私たち自身の責任なのです。
 
漠然とこのような言い方をすれば、皆さんもすぐに同意されるでしょう。けれども、いまあなたが住んでいる世界は「あなた一人の責任である」と言ったらどうでしょうか。世の中には変な人がたくさんいます。そういう人たちが悪い世の中を作っているのだから、私には責任はない、と思うのがふつうではないでしょうか。けれども、私たちはそれぞれ自分の心の中に住んでいるのです。私たちは一つの共通の世界に住んでいるように思っていますが、実は、一人一人別々の世界に住んでいるのです。そして、自分の住んでいる世界は、自分の心の中身を変えれば、100パーセント自分の思い通りになるのです。
 
けれども、私たちは自分の心に何があるか知りません。私たちの心は、ほとんどが潜在意識化しているので、私たちは自分の心の中身に気づいていないのです。そのために私たちは、自分の意志ではどうにもならない客観的な世界が存在しており、自分はその世界にとらわれているかのように感じてしまうのです。
 
イエスは「祈り求めることは・・・」といわれました。私たちは「祈り」を特別の行為だと思っています。けれども、実は私たちの「思いのすべて」が祈りなのです。ですから、心の中に何があろうと、遅かれ早かれ、それは現実になります。
 
私たちは、外の現実を見て、それによって自分の信念を作り出していると思っています。たとえば、誰かがあなたに対して何か不都合なことをしたとします。あなたはその人に対して怒ります。そして、「あんな人がいるから、世の中は良くならないのだ」と考えます。外の現実を見て、自分の信念を作り出す、というのはこういうことです。

けれども、もし、その現実が自分の信念によって作り出されているのだとしたらどうでしょうか。たとえば、あなたの心の底に「今の世の中は悪い」という信念があると、あなたの心はその信念を正当化するような現実を外の世界に作り出します。そして、あなたはその現実に対して怒ります。「あんな人がいるなんて、ほんとにいやな世の中になったもんだ」というわけです。こうしてできた新しい怒りが心の底に沈んでゆき、そして、新たな現実を作り出します。私たちはぐるぐると回りつづけるだけです。
 
外の世界を変えるためには、自分の信念を変えなければなりません。信念を変えるためには、自分がどんな信念を持っているかということに気づかなくてはなりません。信念に気づくためには、善悪の観念を捨てなければなりません。善悪の観念があると、私たちの心は、自分の中にあってはならない信念を見つけたとき、それを見ないで目をつぶってしまうからです。

神の目から見て、正しい信念とか間違った信念というものはありません。ただ、私たちにとってよい結果を生む信念か、そうでないか、という違いがあるだけです。

信じたとおりになる世界というのはどんな世界でしょうか。それは先ず第一に、「信じたとおりになる」というのは嘘だと信じたら、信じたとおりにならない世界を体験するということです。

また、世の中をよくしたいと思ってもよくなりません。なぜなら、よくしたいという思いの根底には、「いまの世の中はよくない」という信念があるからです。したがって[いまの世の中はよくない]という状態が実現しつづけるのです。一つの事柄を改善するのはできるでしょう。けれども、次から次へと同じ種類の問題が形を変えて出てきます。まるでもぐらたたきのようです。現象の背後にある信念を変えない限り、根本的な解決には到達しません

同じ理由で、欠乏に基づく祈り、恐怖に基づく祈りはかなえられません。将来よくなりたいという祈りもかなえられません。たとえば「お金が欲しい」という祈りの背後には「いま、お金が足りない!」という信念があります。私たちが経験するのは、この「いま!」という信念なのです。
 
私たちの信念のすべてが祈りなので、私たちは、自分の信念のすべてをコントロールできるようにならない限り、本当に欲しいことと反対のことを祈ってしまうのです。イエスが「祈り求めることは既にかなえられている」と信じなさいといわれたのは、このためです。「お金が欲しい」と祈るのではなく、「私は既に金持ちである」と信じなさい、というのです。この言葉自体は真実です。

けれども、試してみたことのある人はわかると思いますが、そう簡単には、お金持ちにはなりません。それには、二つの理由があります。

一つは祈りが実現するまでに時間がかかるので、それまで私たちが自分の信念を保ちつづけることができないことです。けれども、祈りが実現するのに時間がかかるのは、私たちにとって恵みなのです。もし、私たちの心の中にあるすべての思いがすぐに現実になってしまうとしたら、私たちは大混乱に陥り、生きていくことができないでしょう。私たちは、自分の意識をコントロールできていないからです。

二つ目は、自分の持っている信念同士が衝突するからです。たとえば、クリスチャンの中には、お金を欲しがるのは悪いことであると思っている人があります。またお金を持つためには、お金が入ってくる道がなければならないと思っています。そして、たとえば「私は年を取ってもう仕事もしていないし、何処からもお金が入ってくる道がない」というような思いを抱きます。このような信念があると、「金持ちである」といくら頑張って信じてみても、実現しません。
 
クリスチャンの中には、自分が何かができると思うことは悪いことだと考える人があります。「私は何もできません。すべてを神に任せます」というわけです。けれども、これは自分の人生に対して責任を負いたくないエゴの陰謀です。本当の信仰は、神に対して、自分の責任を認めるところから始まるのです。自分の人生の責任は全部自分にあります。神は、人間に、その責任を果たすことのできる力を与えてくださいました。その力とは「信念が現実になる」という力です。それは、人間が持っている力というよりは、宇宙の法則です。私たちの責任は、神から与えられたその力を使って、自分の人生を自分の満足の行くようにつくりあげていくことです。そして、絶えず喜びに満たされた人生を送ることです。それが私たちに対する「神の願い」なのです。

2002.8.17 第18回エノクの会
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