聖書の新解釈

B25 無限の責任


一同が群集のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。 「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書17章18‐20節


クリスチャンの中には「自分には何の力もない」という人がたくさんいます。自分は「弱い土の器」であるという言い方もよく使われます。これらの言い方は、それ自体が間違いではありませんが、注意していないと、すぐにエゴに利用されて別の意味で使われます。

「自分には何の力もありません」というのは、一見謙遜で信仰深いように見えますが、エゴがこの言葉を使うとき、エゴは自分の責任を回避しているのです。エゴは、ほんとうは「だから、私には責任はありません。すべては神様の責任です」と言っているのです。なぜなら、力がないものには責任はないからです。このような症状を、私は謙遜症候群と呼びます。
 
もし人間に、ほんとうに力がないのだったら、人間には責任はありません。けれども、イエスは言われました。「あなたがたにできないことは何もない」と。「できないことは何もない」ということは、人間が無限の力をもっているということです。したがって、人間は、すべてのことに責任があるのです。
 
イエスはこういわれました。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」 もし山に「動け」といえば動くというのなら、三宅島の火山に向かって「静まれ」といえば噴火がおさまり、台風に向かって「静まれ」といえば、風も穏やかになるのではないでしょうか。飢饉の土地に向かって「豊かに実れ」といえば、飢饉はなくなり、「戦争よ、なくなれ」といえば戦争がなくなり、「地球よ、平和になれ」と言えば平和になるのではないでしょうか。
 
けれども、私たちはふつう、このようなイエスの言葉を文字通りに信じてはいません。世界中の多くの人も信じられませんでした。 2000年前の人も現代の人も、同じように信じられませんでした。
 
けれども、この聖句に伝えられたイエスの言葉は真実です。人間には無限の力があるのです。ただし、それは「からし種一粒ほどの信仰があれば」の話です。信仰のないものがいくら頑張っても、何の力も生まれません。人間が2000年間努力しても地球の上が少しも平和にならないのは、人間に信仰がなかったからです。
 
なぜ、人間は信仰をもつことができなかったのでしょうか。それには、二つの理由があります。
ひとつは、信仰とは何かということを理解しなかったからです。これについては、ほかのページで触れています。たとえばB15 悔い改めと奇跡をお読みください。

もう一つの理由は、責任を回避するためです。信仰をもてば無限の力を生じ、無限の力をもてば無限の責任を生じます。エゴは責任を負うのが嫌いです。そこでエゴは力をもつことを拒否しました。人間に信仰がないのはそのためです。エゴはその代わりに、にせの力を手に入れようとしました。それが富や権力や武力などです。
 
けれども、地上に天国を実現するためには、私たちは本物の力を手に入れなければなりません。そのためには、本物の信仰をもつことと、無限の責任を負う覚悟が必要です。

無限の責任を負うとは、あなたが見ている世界の「すべては自分の責任である」ということを受け入れることです。他人を指差して「あいつが悪い」と言っているあいだは、無限の責任を負っているとはいえません。あなたの前に「悪い人」が現われているなら、それはあなたの責任なのです。あなたの前に「可哀想なひと」や「惨めな人」がいるなら、それもあなたの責任なのです。世界のどこかで地震や噴火や飢饉のために大勢の人が死んだら、それもあなたの責任なのです。

けれども、どうして私たちは、他人の行動や自然現象の責任を取れるのでしょうか。
 
その秘密は「私たちが他人や自然界のほんとうの姿を見ていない」というところにあります。ほんとうの姿とは「神が創造したそのままの姿」という意味です。私たちは、神が創造された世界をありのままに見るのではなく、自分の潜在意識の中にエゴが作り出したさまざまな観念や感情や判断で、自分勝手に歪曲して色付けして見ています。

赤いめがねをかけて世界を見れば、すべてが赤く染まって見えます。けれども、赤い世界が実際に存在するわけではありません。あなたの目の中で、世界は赤く染まっているのです。私たちが見ている世界も、実は、これと同じなのです。私たちが見ている世界は、戦争や犯罪や自然の災害によって、見るも無残な有様を示しています。けれども、そのような世界が実在するわけではありません。それは、赤いめがねをかけた人に世界が真っ赤に染まって見えるのと同じです。

実は、わたしたちが体験する世界は、すべて一人一人が自分の意識の中に作り出した世界像なのです。あなたが見ている世界は、あなたの意識の中にあなたが作り出した世界です。私が見ている世界は、私の意識の中に私が作り出した世界なのです。
 
もし、私たちが自分の意識の中に、「神が作られた世界のイメージ」をそのまま受け入れることができたら、私たちは天国を体験するでしょう。反対に、エゴのゆがんだ意識によってゆがめた世界像をもてば、私たちは、災害や犯罪や戦いに満ちあふれた世界を体験します。けれども、そのようなゆがんだ世界は、ほんとうには存在していません。なぜなら、ほんとうに存在するものは神が創造したものだけだからです。それ以外はすべて架空の世界です。
 
本物の信仰とは、歪んだ世界や架空の世界を見るのをやめて、ほんとうの世界をみることです。神が創造した世界のありのままを見ることです。そのためには、私たちの心の中から、架空の世界を作り出すさまざまな観念を捨て、真実の姿を歪ませる感情や信念の塊を無くさなければなりません。それが「悔い改め」ということです。
 
信仰は「信念」ではありません。「神が創造した世界」だけを信じ、エゴが作り出すすべての幻想を放棄することです。信仰による力というのは、念力ではありません。「神の創造したもの」だけを見ることです。それが、私たちが世界に対して負っている責任です。

私たちは、他人の姿だけでなく、自分自身についても、ほんとうの姿を見ていません。私たちが「自分」だと思っているものは、ほんとうの自分ではなく、単に、私たちが「自分」について持っている観念の塊に過ぎません。
 
私たちは、自分には力はない、「私は弱くて価値のない土の器だ」と言います。では、神は、私たちをどう思っておられるのでしょうか。神は、私たちを「土の器」だと思っておられるのでしょうか。神は、力もない、美しくもない、何の価値もないものとして、あなたを作り出したのでしょうか。神はあなたに向かって「お前は何の値打ちもないぞ」といっておられるのでしょうか。
 
信仰とは、神に対して謙虚であることです。けれども、それは「私は無力です」ということではありません。神が創ったあなたそのままを受け入れることです。神があなたを観ておられるとおりに、あなた自身を見ることです。自分の観念で、勝手に自分を歪めないということです。
 
神の目の中で、あなたは完全であり、永遠であり、無限の力をもっています。なぜなら、あなたを創ったのは神ご自身であり、神は不完全なものは創らないからです。あなたは、完全です。無限の力を持っています。「あなた方にできないことは何もない」とイエスが言われたとおりです。そのことをあなたが本当に受け入れたら、あなたは世界に対して無限の責任を負っていることがわかり、そして、そのとき始めて、神の前に本当の意味で謙虚になることができるでしょう。

2003.3.15 第25回エノクの会
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