聖書の新解釈

B38 十字架の叫び


これは対話1 アリスとの対話の一部です。聖書の解釈について触れているのでここに複製しました。



193 アリス: さて、これから、ちょっと脈略のない話題を出して、猫さんのお考えをお聞きしたいと思います。私の古い疑問の1つですが、私はキリスト教の幼稚園へ行きまして、その後もしばらく日曜学校へ行きました。主の祈りの中に「試みにあわせず、悪より救い給え」というくだりで、神様が人間を試みにあわせておられることがよく分りませんでした。少し前、「ヨブ記」を読みましたが、なぜこのようなことが起きたのかよく分りませんでした。今でも何のことやらよく分りません。どう考えたらいいのでしょうか?

194 チェシャー猫: 聖書には、確かに、神が怒ったり、人間を罰したり、試みたりするという記事が出てきます。残念なことですが、現代の教会の中にも、そのような神観念を引き継いでいる人たちがいます。
 けれども、私は、これらはすべて、聖書が書かれた当時の人たちがそのように考えたということを示しているに過ぎないと考えています。ヨブ記の冒頭に、神がサタンに対して、ヨブを試みる許可を与える場面が出てきますが、それも同じだと思います。そもそも、サタンという存在も人間がそのようなものがあると考えたというに過ぎません。

 では、真相はどういうことなのでしょうか。

 私は、大きく分けて二つの原因があると思っています。一つは、人間が神の愛を受け取りきれないというところにあります。もう一つは、人間が自分自身を知らないというところにあります。以下にそれぞれを説明します。

 20世紀の初頭に、スウェーデンボルグという人がいました。スウェーデンボルグはスウェーデン出身の哲学者ですが、また普通のひとにはない能力を発揮した人で、近世最大の神秘家といわれています。最も有名なエピソードは、あるときパリの社交クラブで人と話していたときに、突然話を止めて「いま、ストックホルムで大火災が発生しており、火は自分の家に迫っているが、自分の家は大丈夫だ」と言ったという話です。数日して、ストックホルムから伝令が来て知らせた状況が、スウェーデンボルグの言ったこととまったく同じだったそうです。
 このスウェーデンボルグは霊界の話をたくさん書き残していますが、その中に次のような話があります。霊界の下の方の世界、いわゆる地獄には、たくさんの人間(の魂)が行っているわけですが、そこへ時々天使が降りてくるそうです。それは、天国に行く用意のできた人々を引き上げるためなのですが、地獄の住人の多くは天使の光に耐えられずに物陰に隠れて「早く立ち去ってくれ」と天使に頼むそうです。地獄を卒業する用意のできている人は、逆に天使の光を慕って近くに来るので、天使はそういう魂だけを連れて天国に帰っていくのだそうです。
 真冬に身体の冷え切った人が風呂に入ると、いつも入っている温度のお湯でも熱く感じるように、地獄にいる心の冷え切った人には、天使の愛の光が熱くてたまらないのです。仏教にも、不動明王のように、仏の怒りの姿を表わすものがありますが、私は、仏が怒るとは考えていません。仏はつねに慈愛のエネルギーを送って下さるのですが、それを受け取る人間が、熱すぎて耐えられないと感じ、仏の怒りの炎と感じるのです。
 
 二つ目の「人間が自分を知らない」というのは、潜在意識のことです。私たちは、自分の意識の中にあるものを外界の出来事として体験する世界に生きています。ところが、自分の意識の大部分が潜在意識になっていれば、それによって生じる出来事は自分が引き起こしたとは思えません。現代の人間はこのような出来事をすべて「偶然」にしてしまいますが、昔の人はこれを「神の仕業」と思いました。そのために、神が人間を試したり、罰したり、怒ったりするという考えが生まれたのです。サタンという、人間に対して悪をなす存在も、自分の潜在意識の影だといえます。
 では、品行方正で「神の前に欠けるところがない」といわれたヨブに、なぜ試練が訪れたのでしょうか。ユダヤには律法という厳しい掟があり、神の前に正しいといわれる人は、この掟を守る人のことです。ヨブはこのような掟をしっかりと守った人でした。ところがそのような生活をするためには、自分で自分を見張っていなければなりません。掟を犯すことのないように、絶えず自分を監視しつづけなければなりません。このために、ヨブの潜在意識の中には不安と恐れが積もっていきます。何か自分の知らぬところで犯した過ちがあるのではないか、それによって神から罰せられるのではないか、という恐れが心の底にたまっていきます。私は、ヨブに訪れた試練とは、この不安と恐れが現実化したものであると考えています。
 試練の中で、ヨブは神と対談します。そして、ヨブは神に全面降伏して、自分の力で神の前に正しい生活を送ることはできないということを認めます。これは、自分で自分を監視することをやめることです。そして、その代わりに、ヨブは全面的に「神の声に従う」という生き方を始めます。これは心の内面から来る神のエネルギーの流れに身を任せて生きるということです。善悪を自分で判断することをやめ、無心に神のエネルギーの流れに沿って生きる、というときに、神の恵みのすべてが現実化するようになるのです。
 これが、私の「ヨブ記」の解釈です。多分ヨブというのは実在の人物ではないと思いますが、この物語は、人間の生き方に対する深い洞察を伝えていると思います。

 ヨブ記については、私はもう一つ別の解釈を持っています。
 ヨブ記の構造を見ると、序文(1−2章)、ヨブの歎き(3)、三人の友人との対話×3回(4−27)、神の知恵の賛美(28)、ヨブの歎き(29―31)、エリフの言葉(32−37)、神の言葉(38−41)、結び(42)となっています。私はこのうち序文と結びを除いた3章から41章までのすべてを、ヨブの心の内面における自問自答であると考えます。これはヨブが心の内面において神との出会いを体験するまでの、精神の闘いを示しているのです。
 現実に霊性への道を歩みはじめる人は、その初期に非常な苦しみの期間を過ごすことがあります。それは「魂の闇」というような名で呼ばれていますが、ひとによって大病をしたり、事業に失敗したり、人間関係で苦しんだりします。そして、そのような苦しみの中で、ある日突然、今まで見えなかったものが見えるようになるのです。ヨブ記は、ヨブという人物の物語を借りて、この魂の闇を描いているのだと思います。
 「魂の闇」とは、一言で言えば、私たちの心にくもの巣のようにからみついている物質世界の価値観を払い落とすための闘いなのです。霊性の道を歩み始めた人は、現実の出来事としては悲惨なことは何も起こらなくても、この世の物事に価値を見出すことができず、生きる目的も、自分の存在意義も見失って、絶望と虚無の中に落ち込んでしまいます。ヨブはたくさんあった財産や親族をすべて失ってしまいますが、これは現実には持ち続けていたとしても、もはや頼りにも喜びにもならない無意味な宝である、ということを象徴していると思います。
 ヨブの三人の友人との繰り返し行なわれる対話は、ヨブの心の中で、因果応報的な価値観が行き詰まっている状況を表わしています。因果応報とは、よいことをすれば、よい結果が得られるという、いわばギブ・アンド・テイクの価値観です。この価値観を持っている人がよいことをするのは、愛によるのではなく、よい結果を得たいという欲によるのです。このことが、1章9節の「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」というサタンの言葉に要約されています。友人との論争の中で、ヨブは執拗に「自分は正しいのに、神は正当な扱いをしてくれない」と繰り返します。これが因果応報的価値観です。これは、物質世界の価値観です。
 三人との論争のあと、それを総括するようなエリフの言葉が出てきますが、ヨブの主張とエリフを含めた四人の友人の主張を眺めると、結局、「神は間違いを犯すことはない。神は正しい者に恵みを与え、不正な者を滅ぼす。ヨブに災難が降りかかっているからには、ヨブは罪を犯したに違いない。私は絶対に不正を犯してはいない。世の中にも、不正な者が繁栄し、正しいものが苦難の中で死んでいく例がたくさんあるではないか。神は何をしておられるのか。いや神が間違いを犯すことはない」という一連の論争をぐるぐると果てしなく繰り返していることがわかります。実はこの堂堂巡りをぎりぎりまで突き詰めることが、この世の価値観から抜け出すために必要なプロセスなのです。
 そして、突如、神が現われて語ります。神は、ヨブが正しいかどうか、4人の友人が正しいかどうか、ということは何も語りません。ただ、神の世界がヨブが見ていた世界を如何に高く超えているかということだけを語ります。ヨブは、この言葉を聞くとき、神が自分の中に、魂の奥の奥に、おられると感じていただろうと思います。ヨブは、神といっしょになって、神が支配される世界を、神の目を通して見ていたのです。私が、自分の腹の中に宇宙があると感じたときのように、ヨブは、神が支配される途方もなく大きな世界が自分と別のものではないということを感じたはずです。
 このときヨブの意識は、時間空間を超えた無限に触れ、この世の因果応報的価値観から解放されたのです。そして、ヨブは「そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」(42章3節)という言葉で、自分の行為を含めて、すべての出来事を自分で価値判断するのをやめるのです。自分の持っているこの世の価値観を放棄してしまうのです。ヨブにとって、もはや「自分が正しいかどうか」ということは意味を持たなくなってしまったのです。
 これが、本当の意味で、霊性への道の最初の一歩だと思います。
 アリスさんはおそらく、禅の接心のことを思い浮かべていただけば、ヨブ記の意味を理解されるのではないでしょうか。 

195アリス: ヨブ記についてのお話大変面白く、また、かなり理解が深まってきました。為すすべがなくなり、自分の計らいが尽きたところに神が立ち現れると言うことですね。
 最初の「天にましますわれらの父よ。御名をあがめさせたまえ。・・・」で始まる「主の祈り」は今でも教会で唱えられているのでしょうか?キリスト教のお祈り中で大変重要なお祈りと思っておりましたが、その認識でいいのでしょうか?
 試みにあわせるの「試み」はtemptationとtrialの2つの意味があるようですが、この問題に関連する私の古い疑問の今ひとつは、十字架の上でのキリストの次の言葉です。
 
 「第九時に,イエスは大声で叫んで,「エロイ,エロイ,ラマ,サバクタニ」と言った。これは,訳せば,「わたしの神,わたしの神,なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マルコ15:34」
 And at the ninth hour Jesus cried with a loud voice, saying, Eloi, Eloi, lama sabachthani? which is, being interpreted, My God, my God, why hast thou forsaken me?  King James version
 
 私の中では、主の祈りとヨブ記とこの箇所が繋がっていて、分らない所でした。つまり、神の試みというものが分らなかったのです。
 十字架のこの箇所はマタイ、ルカ、ヨハネと記述が異なっており、その解釈はキリスト教の中で大変重要な所だと思いますが、猫さんのお考えをお聞かせくださいませんか?
 
196 猫: さすがはアリスさん、目のつけどころが違いますね。これはキリスト教の中の難問中の難問だと思います。けれども、始めに主の祈りの問題から順に片付けていきましょう。

 主の祈りは今でもキリスト教の祈りの中で最も重要であり、また最もよく知られた祈りです。ご参考までに、以下に現在プロテスタントの教会で使われている主の祈りの全文を書いておきます。
  天にまします我らの父よ、
  ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
  み国を来たらせたまえ。
  みこころの天になるごとく、
  地にもなさせたまえ。
  我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
  我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、
  我らの罪をもゆるしたまえ。
  我らをこころみにあわせず、
  悪より救い出したまえ。
  国とちからと栄えとは
  限りなくなんじのものなればなり。
  アーメン                 (1880年訳)
 これは明治時代の訳ですが、いまでもたいていの教会はこれを使っていると思います。ほかに新しい訳を試みたものもありますので、それも書いておきます。
  天の父よ
  み名があがめられますように、
  み国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
  わたしたちに今日も この日のかてをお与え下さい。
  わたしたちに罪を犯した者を ゆるしましたから、
  わたしたちの犯した罪を おゆるし下さい。
  わたしたちを誘惑から導き出して 悪からお救い下さい。
  み国も力も栄光も とこしえにあなたのものだからです。
  アーメン             (日本キリスト教協議会統一訳)
 この中で「試み」が誘惑 temptation の意味であることがはっきりすると思います。なお、この「試み」は、神が人間を試みるのではなく、人間がさまざまな誘惑に陥らないように守ってください、という意味です。

 さて十字架上のイエスの言葉の問題に入りますが、アリスさんもお気づきのようにイエスの最後の言葉は、四つの福音書でちがっており、どれが本当のイエスの言葉なのか、あるいはどれも違うのか、よくわかりません。第一、イエスが息を引き取ったとき、そばにいたのはローマの兵士達やイエスに敵対したユダヤ人たちであって、それをイエスの母のマリアをはじめとするイエスに従った女達が遠くから見守っていて、男の弟子たちはみんな逃げ去ってそばにいなかったということになっていますから、正確な記録が取れたはずはありません。むしろ謎は、イエスの弱さを示すとも見えるこの言葉が、どうして聖書の中に生き残っていたのか、ということのほうにあるように思います。

 これについて、註解書が何と言っているか、一つの例を次に記しておきます。
 「46節のイエスの絶望的な叫びは、詩編22篇2節の言葉。この詩編は最後に神への賛美となるので、彼はこの詩編全体を朗誦しようとして最初の説だけで力尽きたとする説がある。しかしその考え方は、絶望は救い主イエスの最期にふさわしくないという考えを前提にしており、42節の見物人の考え方にちかいのではないだろうか。むしろ事態はもっと深刻であり、記者が記すとおりにイエスは絶望の只中で神への最期の疑問を投げかけたと解すべきであろう。・・・中略・・・また一方、イエスのこれほどの弱さを伝承に語り継ぐことのできた初期教会の強さも指摘できよう」(山内真監修『新共同訳新約聖書略解』日本基督教団出版局:マタイによる福音書)。
 「第九時にイエスは大声で呼ぶ。暗闇として臨在し、かつ暗闇としてしか臨在しない神に対する呼びかけといえる。・・・中略・・・<わが神>の呼びかけに、神とのパーソナルな関係を表わしつつ、その神が自分を捨てた目的を問う悲痛さがある」(同:マルコによる福音書)。
 プロテスタントには、カトリックのような、ある見解を公式に承認したり否認したりする制度はありませんので、このような問題に対する見解も、神学者により牧師によりさまざまです。註解書もいろいろあって、この言葉に対する解釈も一様ではありません。
 そのようなことを承知の上で、以下の私の解釈をお読みください。
 
 私は、この言葉は、イエスの復活の物語とセットになってはじめて意味のある言葉だと考えています。「神に見捨てられた」と、人も思い、自分も思う、そういう人が復活するところに意味があるのです。これは、イエスだけが特別な人だということを示しているのではありません(そう解釈するのが一般的ですが)。すべての人においてこのことが真実であるということを象徴するものとして、イエスの十字架という事件があるのです。
 旧約聖書の終わりのほうにホセア書という書物があります。それによれば、ホセアという預言者は、神から「淫行の女をめとれ、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」(ホセア書1章2節および3章1節)という命令を受けます。それは、神から愛されていながら神を忘れ偶像礼拝に走るイスラエルの民を、神がなお愛しつづけておられることの象徴なのです。このように、預言者は言葉によって語るだけでなく、ときには自分の人生そのもので象徴的に語るのです。
 私はイエスほどの預言者が、人生の最後において、ホセアと同じ事をしなかったということはあり得ないと考えています。イエスの十字架上の死は、ホセアの生涯と同じように、イエスが人生そのものをかけて語った象徴的物語なのです。
 イエスは、ゲッセマネの園でユダヤ人たちに捕らえられたとき、剣をとって戦おうとした弟子を押しとどめて、こう言いました。
 「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイによる福音書26章53−54節)。
 イエスの言動がすべて旧約聖書の古い予言の実現であるという考えは、イエスの後に残された弟子たちがユダヤ教に対抗してキリスト教を権威付けるために行なった後付けの理論であると言われますが、イエスが何らかの意味で、自分の命をかけて神からのメッセージを伝えようとしたということは、十分考えられると思います。
 十字架の上で起こる事は、肉体の死です。マタイによる福音書の27章40節に見物人たちが「神の子ならば自分を救え」という場面がありますが、このときの「救い」は肉体の救いを指しています。イエスの「お見捨てになったのですか」という言葉も、肉体の破滅のことを言っています。これらはすべて、肉体に密着した意識、つまりエゴの意識のレベルでの言葉です。エゴの意識のレベルでは、肉体の死はすべての終わりです。神に呼びかけても答えはなく、「神も仏もあるものか」というこの世の知恵が勝利するかのように見えます。
 けれども、霊性のレベルにおいては、最初から闘いは存在しません。なぜなら、霊性にとって肉体は幻想に過ぎないからです。ヨハネによる福音書には、イエスが弟子達に別れの説教をするところがあります。イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と語ります(16章38節)。「世に勝っている」とは、私はすでにこの世のものではないということです。
 実は弟子たちも、すべての人も、この世のものではないのですが、それは人間が物質世界にとらわれた意識を解放しない限り、現実の体験とはなりません。十字架とは、人間の意識を物質世界から解放することなのです。それが十字架という極刑によって象徴されているのは、物質世界を手放すということが人間の(エゴのレベルの)意識にとって非常に困難なことであるからに他なりません。その困難を乗り越えて、物質世界へのとらわれを振り切ることのできた魂だけが、霊性の世界に目覚めることができるのです。
 イエスの十字架の死から復活にいたる一連の出来事は、そのことを象徴的に語る物語であると思います。
 
 アリスさんの直観の確かさに敬服します。アリスさんは、主の祈りの「試み」という言葉と、ヨブ記と、このイエスの十字架上の言葉とがセットになって一大疑問になっていたといわれましたが、こう見てくると、まさにこれらの三つがつながっていることがわかります。
 「我らを試みにあわせず」の「試み」とは、物質世界の誘惑のことです。物質世界の中の一部に誘惑があるのではなく、物質世界そのものが甘い幻想の誘惑なのです。その幻想を見抜いたとき、私たちの魂は幻想でない真実を見出すために、激しい絶望と虚無の闇の中で、物質世界の価値観を払い落とすための闘いをしなければなりません。それがヨブ記です。そして、イエスの十字架の言葉は、物質世界の幻想を手放すことがエゴの意識にとって如何に困難であるかということと、物質世界を手放した後にはじめて復活すなわち「真実の世界への目覚」めがあることを示しているのです。
 
197 アリス: 猫さんのお話に唸ってしまいました。年来の3つの一連の疑問が見事に解かれ、深い感動を覚えました。これまでの対話のお陰で、猫さんのお話が分かる自分をうれしく思います。
 神―試練―罰・報償 といった家父長的な人格神のイメージが私の心に深く根付いていたことにも気づきました。これはフロイトの世界ですね。
 富、名誉、快楽・・・人に心地よいものが誘惑temptationであるのは分かるのですが、病気、貧困、不和、戦争、天災・・・の理不尽とも思える苦痛を伴うもろもろのものは試練trialと受け止めるのが私には自然でした。
 理不尽であるがゆえに、それは神様が私たちの理解を超えた理由で私たちに与えたものと思っておりました。しかし物質界の快楽も苦痛もプラス、マイナスの差はあっても、エゴの意識のかもし出すもので、幻想に過ぎないと分かれば、それらは霧散いたします。
 しかし、世界は苦に満ちているというのが多くの宗教のスタート点です。その解決に新興宗教を含む多くの思想が生まれてきました。お釈迦様もここからスタートしておられます。
 具体的な現在の苦に対し、具体的な対応策が示されなければなりません。苦が物質世界の幻想のひとつだとして、結局、エゴがある限り幻想も消えないと思うのですが、これが十字架の意味でしょう。
 それではエゴとは一体何なのでしょう?
 エゴ発生のプロセスはどのようなものなのでしょうか?

198 猫: 多くの宗教が「この世界は苦に満ちている」というところから出発しているのは事実です。けれども、この世界が苦ばかりで満たされているわけではありません。同じくらい、喜びや美しさや感動に満ち溢れているのです。そうでなかったら、アリスさんも絵などは描かなかったのではないでしょうか。
 それなのに、宗教が苦ばかりを問題にするのはなぜでしょうか。それは、この世がうまくいっているときには、だれも「なぜうまくいくのか」というような疑問は抱かないからです。うまくいかないことがたくさん積み重なってどうにも仕方がなくなったときに、人間は「いったいどうして世界はこんなになっているんだ。もっとよい世界があってもいいじゃないか」と考え始めるのです。
 この意味で、苦しみは「真実の世界に目を覚ましなさい」というメッセージなのです。だからといって、幻想の世界で遊んでいるのが「悪い」というわけではありません。睡眠中に、どんなによい夢を見ようと、どんなに悪い夢を見ようと、誰からもとがめられることはありません。ただ「悪い夢がいやなら目を覚ましなさい」というだけです。
 
 (以下略)


2018年4月15日 「アリスとの対話」より抜粋
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