B17 自分を癒しなさい


イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じようにレビ人もその場所にやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

日本聖書協会 新共同訳聖書 ルカによる福音書10章30−37節


「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスの言葉と、きょうのタイトルである「自分自身を癒しなさい」という言葉と、相反すると思われる方があるかも知れません。イエスは「他人を助けなさい」と言われました。私は「自分を癒しなさい」と言います。
 
私は、ことさらに通常の伝統的な聖書解釈と違うことを皆さんにお話しています。それは、もし、私が伝統的解釈と同じことを言うのであれば、何も私が話をする必要はないと思うからです。教会に行って、普通の牧師の話を聞いていただけばいいのです。
 
私は、私の解釈が正しくて伝統的な解釈が間違っていると主張しているわけではありません。伝統的な解釈も私の解釈も、一つの見方に過ぎません。どちらか一方が正しければ、自動的に他方が間違っているというようなものではないのです。たとえば、地球を理解するのに、私たちはいろいろな地図を使います。地球は球面ですから、平面の地図の上に全体を描き表わすことは本質的に不可能です。そこで、地図の描き方にはいろいろな方法が考案されました。どの地図もそれぞれに長所と短所があります。どれか一枚の地図だけ持ってきて、「これが一番正しい地図です」という人はいません。いろいろな地図が、いろいろな表現の中の一つに過ぎないということがわかっているからです。
 
神や霊性について言葉で表現するときにも同じことが起こります。神や霊性は、もともと人間の言葉で表現することはできないものなのです。それを無理して表現しようとするので、いろいろな表現法が生まれ、それをもとにいろいろな宗教が生まれます。ところが、いろいろな宗教がみんな「自分が絶対に正しくてほかは間違いだ」というので宗教間の争いが起こります。けれども、神について、霊性について、何を考え、それをどのように表現し、何を信じるか、ということはすべて無意味なことです。皆さんにはそのレベルを超えていただきたいと思います。
 
先日ある新聞でこんな記事を読みました。ある人がさる高名な茶道の先生に茶の心を尋ねたそうです。するとこんな答えが返ってきました。「茶の精神についてよく問われる。一般論では、豊かな精神を築くとか、和の心を醸成するなどと美辞麗句をならべるが、本当は、美しい言葉をいくらならべても何の意味もない。茶道は茶をたてる行動を通じて五感に磨きをかけるところにその神髄がある。」【2002年6月26日毎日新聞「憂楽帳」欄;茶道の師は座忘斎千宗之師匠】 茶を立てるというのはエクササイズ(実習)であって、そのエクササイズを通じて五感が磨かれる、つまり人間自身が変るところに茶道の本質がある、と言われているのです。
 
宗教も同じです。信仰というのは、特定の思想や観念を信じることではありません。それはエクササイズであるべきなのです。人間の神に対する感覚を磨くためのエクササイズであり、それによって自分が変るところに意味があるのです。
 
きょうの聖書の個所もたいへん有名なところですが、これもサマリヤ人がよい人で祭司とレビ人は悪い人という構図の中で語り継がれています。けれども私は、そのような善悪の構図の中でこの物語を受け取っても意味がないと考えています。人に親切にすることが「良いことである」と教えても問題の解決にはなりません。「よいことだからする」というのはすべて偽善です。自分が本当に喜びと生きがいを感じることをしたら、それが人に親切にすることだった、というのでなければ意味がありません。どうしたら、親切ににすることに喜びと生きがいを感じるような人間になることができるか、ということが問題なのです。
 
聖書のたとえを少しひねったお話をします。
道端に追いはぎに襲われた人が倒れていました。そこへ緑内障で非常に視野の狭くなった人が通りかかりました。この人は自分の足元だけしか見えなかったので、倒れている人に気づかずに通り過ぎていきました。次に、手を骨折して肩から包帯でつっている人が通りかかりました。この人は、倒れている人に気がつきましたが、自分もけがをしているので、助けてあげることができませんでした。そこでこの人は「誰かにあったら、あなたのことを伝えてあげる」といって立ち去りました。次に体の丈夫な若者が通りかかり、倒れている人を肩に担いで次の町まで運び、宿屋の主人に介抱を頼んで立ち去りました。
 
この話は、自分が健康でなかったら他人を救うことはできないということを示しています。善悪の問題ではなく、健康の問題なのです。聖書に出てくる祭司やレビ人は、肉体は健康でしたが、心が病気だったのです。
 
私たちは、肉体にけがや病気をしている人は気の毒な人だと思います。ところが、心にけがや病気を持っている人は悪い人だといいます。けれども、体と心は同じものなのです。心は体の見えない部分であり、体は心の見える部分です。善悪の判断をせずに物事を見なければ、物事の本質は見えてきません。
 
原理的な一般論をすれば、身体に病気のある人も、心に病気のある人も、すべて愛エネルギーが不足しているのです。すべての人に愛エネルギーを送ることが世界を癒します(愛エネルギーについてはB5神の正義と人の正義を詠んでください)。
 
イエスは「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、他のことはつけて与えられるだろう」と言われました。「盲人が盲人の手引きをすることはできない」とも言われました。また「あなたの目から丸太をとりのぞきなさい。そうすれば、他の人の目から塵を取り除いてあげることができる」とも言われました。これらの言葉はすべて、「自分自身を救いなさい。そうすれば、他の人を救うことができるようになる」という事を意味しています。遠慮なく、他人のことはかまわずに、自分自身の救いを徹底的に求めてください。一番大事なのは、自分自身に愛エネルギーを送ることです。
 
自分を救うとは、悔い改めることです。心を入れ替えることです。私たちがこの物質世界を生きることによって積み上げてきたあらゆる常識が、実は私たちをあざむくものであることに気付いてください。
 
「心の清いものは神を見る」と言われています。心を濁らせているのは、私たちが持っている物質世界の常識的観念なのです。そのような常識を思い切って捨てることができると、本当に神を感じることができるようになります。神のエネルギーを自分の中に流すことができるようになります。これが信仰のエクササイズなのです。 

2002.7.13 第17回エノクの会
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