聖書の新解釈

B27 犯人探し


さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである。」

日本聖書協会 新共同訳聖書 ヨハネによる福音書9章1―3節


きょうの聖句には、これまでお話した症候群とはちょっと違いますが、私たちのエゴの典型的な思考パタンの一つと、それに対するイエスの答えが凝縮されています。

通りがかりに出会った目の見えない人を指して弟子たちはイエスに尋ねました。
「この人が目が見えないのは、親の罪ですか、本人の罪ですか」
 
ここには、二つの判断が隠されています。
一つは「目が見えないということは悪いことである」という価値判断です。私たちは、自分が体験すること、他人が体験すること、世の中の出来事、あらゆるものを価値判断します。あれはよいこと、これは悪いこと、と分類します。理性で考える以前に、感情的な反応として、ほとんど瞬間的にそういう判断を下しています。多くの場合、「悪いこと」というのは必ずしも道徳的な善悪の問題ではなく、自分にとって不都合なことというくらいの意味です。確かに目が見えないということは、その人にとってはたいへんな苦痛に違いありません。そのようなものは「悪いこと」あるいは「有り難くない」ことであるわけです。
 
第二の判断は、「悪いことが起るには原因があるはずだ」という判断です。これも、私たちはほとんど無意識のうちに行います。そして、私たちは悪いことの原因を探します。これを私は「犯人探し」と言います。よいことにも原因があるはずですが、私たちはよいことの原因探しはあまりしません。「ああよかった」とか「ラッキー」といって終わりです。けれども、悪いことについては、執拗に原因を追求したがります。
 
弟子たちは「この人の目が悪いのは、親の罪か、本人の罪か」とイエスに尋ねました。当時のユダヤには「親の罪が子にたたる」というような因果応報の思想があったのでしょう。現代の私たちは、そのような考えはおかしいと思うかも知れません。現代人は「親の罪か、本人の罪か」とは言いません。「遺伝ですか、病気ですか」と尋ねます。「親の罪か、本人の罪か」というのとあまり違いませんね。

けれども、どこに原因を探すかは問題ではありません。「原因」を探すということが問題なのです。
 
弟子たちの質問に対して、イエスはこう答えられました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである。」

イエスは「誰が犯人か」という問題に対して答えることを拒否されました。これは「犯人はいない」という意味ではありません。悪いことが自然に生まれるわけではありません。どこかに原因はあるのです。けれども「そこに目を留めていては何の解決にもならない、真の解決は犯人探しからは到達できない」ということが、イエスが伝えようとされたことなのです。
 
では、どうすれば解決が得られるのか、それが「神の業がこの人に現われるためである」という言葉に示されています。これは、神の業が現われるために、神がわざわざこの人を盲人にしたということではありません。「どのような状況においても、ただ神の業にのみ目を向けなさい」というのがイエスの答えなのです。
 
原因を探り、原因を排除すれば、悪い出来事は起らなくなる、というのが私たちの常識的な論理です。それは間違いではありません。けれどもそれは目に見える世界だけの因果関係です。物事の真の因果関係の一部分に過ぎません。
 
真の因果関係は、目に見える因果関係と目に見えない因果関係の両方からできています。けれども、私たちは普通、目に見える因果関係のほうしか気づいていません。実は、もっと深いところに、目に見えない因果関係があるのです。それは目に見える因果関係より先に働きます。
 
目に見えない因果関係は、この世界に「何を」作り出すかを決定します。目に見える因果関係は、それを「どのようにして実現するか」を決定します。したがって、目に見える因果関係を調べて原因を取り除いたとしても、目に見えない因果関係が決めた「何を」というのが変わらなかったら、それはいずれ別の道を通って実現することになります。真の解決に至るには、この「何を」という部分を変えるほかはないのです。
 
イエスの言葉はこの「何を」という部分に「神の業」を置きなさい、と教えています。神の業とは、イエスがなされた奇跡を指すのではありません。奇跡は、神の業が異常な速さで実現したものです。けれども、神の業は、実現の速さではなく、実現したものそのものを指すのです。「目が見える」ということが神の業なのです。イエスは、神の業が現れていなかったところに、神の業を現したのです。
 
神の業とはどんなものでしょうか。それは、平和や喜びや健康などです。すべてのものが完全であり、愛と慈しみによってたがいに支えあい、生命の多様な美しさを表現する世界です。それが神の業です。イエスの言葉は、あらゆる場面を神の業を現わすための場だと考えなさい、ということを教えているのです。
 
犯人探しをするとき、あなたの目は「悪いもの」のほうを向いています。そうすると、あなたの潜在意識は、それをあなたにとって大切なものだと考え、これから実現する「何を」という部分におきます。このため、あなたは一つの原因を取り除くかもしれないけれども、次々に同じような出来事に悩まされつづけることになります。
 
あなたの目を絶えず「神の業」に向けてください。いま住んでいる場所が神の国であり、そこで光の子として振舞っている自分を絶えず想像してください。そうすれば、潜在意識がそれを「何を」という部分におき、やがてあなた自身とあなたの身のまわりが変わりはじめます。私たちはイエスのように瞬間的に神の業を実現させることはできないかもしれませんが、時間的速さが違うだけで、イエスがされたことと私たちがすることには、何の違いもないのです。

2003.5.17 第27回エノクの会
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