聖書の新解釈

B2 霊性とは何か



私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。

日本聖書協会 新共同訳聖書 ヨハネによる福音書15章5節


ジョエル・ゴールドスミスという人は、「人間が神について抱くすべての観念は誤りである。なぜなら神はすべての観念を超えているからである」と言いました。トマス・アクィナス(1224-74)は「神学大全」という膨大な神学書を書いた中世の有名な神学者です。彼は、8年間にわたってその書を弟子に口述し書き取らせてきましたが、ある年のクリスマスに啓示を受けたあと、その書を書きつづけることをやめ、「これまで書いてきたことは藁屑のようなものだ」と言ったそうです(上田閑照著、『エックハルト』、講談社学術文庫)。そして彼は翌年の3月には死んでしまいました。神学大全の最後の部分は、結局弟子が書き足して完成させました。

神について「正しい観念」というものはありません。霊性というのは「神の質」です。霊性についても、正確に定義するとか、それを知的に理解するということは不可能であり、意味がありません。言葉はただ直接的理解へいたるための途中の乗物に過ぎないのです。
 
霊のことを英語ではspiritと言います。この言葉は「呼吸する」というラテン語から来ています。霊を表わすギリシャ語のプネウマが「息」を意味しているように、「呼吸」と「生命」が同一視されたのだと思われます。ある英語の辞書には、spiritに21個の意味が記載されていました。その中で、次のようなものを互いに混同しないようにしなければなりません。
 (1)霊性あるいは神性:  神は霊である(聖書)
 (2)非物質的存在:  天使、悪魔、妖精、火の精や水の精などの精
 (3)人間の魂:  霊魂、死者の霊、幽霊
 (4)心霊現象:  霊能力、超能力、透視、念力、霊視、霊感、夢のお告げ、エクスタシー
漢字の霊という字は、天からの恵みである雨と、神を祭る巫女の巫という字を組み合わせたもので、語源的には神の恵みを表すとされています。現代では上記の(2)(3)(4)と同じような意味で使われており、日本では特に死後の世界や心霊現象と結びついて使われることが多いようです。
 
「霊性」という言葉は、最近ではいろいろな人が使っているにも関らず、広辞苑を引いても出てきません。「霊性」という言葉を最初に使ったのは鈴木大拙という仏教学者であるとされています。鈴木大拙(1870-1966)は、日本の仏教思想を欧米に伝えるのに功績のあった人ですが、『日本的霊性』(岩波文庫)という本を書き、その中で、霊性という言葉を使う理由、つまり霊性という言葉が従来からある精神、心、宗教意識などという言葉とどう違うかということを説明しています。

注目すべき点は、「精神」が「物質」に対立する言葉であるのに対して、「霊性」というのは物質と精神の両方を成り立たせる土台であると述べている点です。「神は霊である」というヨハネ福音書の言葉は、単に、神が天使や悪魔と同じような非物質的存在であるといっているわけではありません。神は、物質も非物質も超え、それらのすべてを存在させる巨大な意志なのです。私は、その神の持っている本質、つまり神が神であるということの本質を、神が持っているときに神性と呼び、それが神以外のものに与えられたときに霊性と言います。
 
イエスは「ぶどうの枝」のたとえで、人間が神につながっていなければ枯れてしまうであろう、と言われました。人間は、本来霊性を持った存在、霊的な存在だったのです。それはぶどうの枝が幹につながっているように、神につながっている状態でした。けれども、人間はいま神から切り離されていて、幹につながっていない枝が枯れるように、枯れかかっています。人間が「霊性を回復する」ということは、人間が本来の霊性に目覚め、神とのつながりを回復するということです。
 
クリスチャンはよく自分のことを「土の器」であると言います。自らを謙遜して、壊れやすい、大して価値のないものだといっているわけですが、私は、人間は、単なる土の器ではなく、電球のようなものであると考えています。神とつながって神のエネルギーがその中を流れなければ、ただの「ガラスの器」です。けれども、その中を神のエネルギーが流れれば、光り輝く存在となります。
 
霊性とは神のエネルギーです。人間にエネルギーを供給するのは神ですが、スィッチを入れるのは人間です。神のエネルギーはすでに来ています。けれども、人間は自分で自分にスイッチを入れなければなりません。
 
神は「存在のエネルギー」です。すべて存在するものは神によって支えられて存在しています(このことの本当の意味もいずれお話しするでしょう)。神によらずに存在するものはありません。その存在のエネルギーが大量に流れれば人間は光り輝き、少ししか流れなければかろうじて存在するだけになります。そして、自分の中にどれだけ神のエネルギーを流すかということを決めるのが、実は人間にゆだねられた最大の自由なのです。
 
ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は『ガラス玉演戯』という晩年の作品の中で、登場人物のひとりに「真理は講義されるべきものではなく、生活されるべきものである」と言わせました。霊性は知的に理解するものではなく、ただ黙って体験しつつ生きるべきものです。
 
霊性の体験を異常な興奮や忘我の恍惚状態のように考えるのは、霊という言葉を誤解しています。それは単なる霊現象に過ぎません。そのようなものにはまり込むと、場合によっては道を踏み外すこともあります。本当の霊性の回復とはどんなものかということを、これから回を追ってお話ししていきます。
 
霊性の体験がどんなものかということの一つの表現として、霊性の体験は「限りなく透明な理解」であると言えるでしょう。霊性を理解するのではなく、宇宙と自分の真実を理解している状態が霊性なのです。全宇宙の永遠の過去から永遠の未来までのすべては、いま存在しています。そのすべてをいま自分が知っている、そして自分のすべてが知られている、という、強烈で、静かで、透明な「理解の感覚」。いまこのままで「すべてはこともなし」という「平安の感覚」。神のみわざはすべて終わっており、すべては完全であり、すべては完成しており、すべては一つであり、すべては充足しているという「完成の感覚」。それが霊性の感覚です。

2001.4.14 第2回エノクの会
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