聖書の新解釈

B3 内面の世界



ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。

日本聖書協会 新共同訳聖書 ルカによる福音書17章21節


聖書の原典は、旧約聖書がヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で書かれています。このため、イスラエルやギリシャなど一部の国を除いては、どこの国でも、聖書は翻訳という過程を経て人々の目に触れることになります。当然その過程で、原典の言葉をどう解釈するかという問題が発生します。また時代と共に、神学や哲学や社会思想の変化、考古学や歴史学や文献学の進化によって、さまざまな解釈の仕方が生まれます。イスラエルやギリシャにおいても、聖書が書かれた時代の言葉と現代の言葉とはかなり変化していますから、現代の人々が理解するにはやはり古代語から現代語への翻訳という過程が必要になり、そこにいろいろな解釈の入り込む余地がうまれます。ちょうど日本において、源氏物語の現代語訳がいくつもあるようなものです。このような事情で、世界にはたくさんの聖書がありますが、みんな少しずつ微妙な違いを含んだ状態で読まれています。
 
その中でも、きょうの聖句の「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」という部分は、日本語の聖書の中で特に著しい変遷をたどったケースの一つです。日本語の聖書は、文語訳の時代から、口語訳、共同訳、新共同訳と何度も新しい翻訳によって編纂されましたが、それにつれてこの部分の訳文も変化してきています。いちばん新しい新共同訳では、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」となっていますが、その前の口語訳聖書では、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と訳されていました。そして昔の文語訳では、「視よ、神の国は汝らの中(うち)に在るなり」となっています。実は英語の聖書にも、これに相当する訳文の違いがあります。やはり、人間の「内側、内面」から「間に」まで、さまざまな訳がなされています。

いったい、本当はどう訳すべきなのでしょうか。私は、最初の文語訳のように、「神の国はあなたたちの内側にある」と訳すべきだと思っています。このように、訳が揺れ動いているのはギリシャ語のentosという語の解釈が定まらないからですが、本当の問題は、人間の内側に神の国があるということが理解できないことにあるのではないか、と思われます。
 
人間が霊性を回復するためには、人間とは何かということについてのイメージを作り変える必要があります。私たちはふつう、物質宇宙という大きな入れ物の中にたくさんの人間がいて、その中の一人が自分であると思っています。人間は物質であり、死ねば分解して何もなくなる、と考えています。何らかの宗教を信じているひとなら、肉体の死後に魂が何らかの形で生き続けると信じていることでしょう。
 
けれども、ほんとうは、人間は肉体を捨ててから不死身になるのではありません。肉体を持って生きている現在、すでに永遠の生命を持っているのです。肉体は生まれたり死んだりするかもしれません。けれども、肉体の有無にかかわらず、人間は生きつづけています。ということは、本来、人間は肉体ではないということなのです。
 
ひとつのたとえをお話します。
神の国にひとつの劇場があると考えてください。この劇場に遊びに来るのは「神の子どもたち」です。物質の肉体ではない、生まれることも死ぬこともない、霊的な存在のことを仮にそう呼んでおきます。この劇場には個室がたくさんあり、この劇場に遊びに来た観客は、一人ずつ、この個室に入ります。それはちょうどワンルーム・マンションのような感じですが、窓のかわりに壁掛け型の大型スクリーンがあり、そこにはコンピュータでつくった仮想世界の風景が映し出されています。すべての部屋で、同じ世界の情景が映し出されているのですが、その風景は部屋ごとに少しずつ違っています。それは、一つ一つの個室が、その架空の世界の中に生きているひとつの生き物に対応していて、スクリーンに映し出されるのは、その生き物の目から見た世界だからです。同じ生き物に二つ以上の個室が対応することはありませんから、すべての個室の映像はみんな違っています。観客は、この個室の中で、その個室が対応している生き物になったつもりで、その仮想世界の中の生活を体験するのです。
 
実は、この個室が私たちの心であり、画面の中の仮想世界が物質世界なのです。私たちはふつう、物質世界の中に肉体があり、肉体の中に心がある、というイメージを持っています。けれども、本当はそうではありません。本当の人間というのは、純粋に霊的な存在であって、それが心という仕組みをつくり、その心の中に物質世界を描き、その物質世界の中に肉体を描いて、そして、「私はこの肉体である」と考えたのです。神が創った人間というのは、この霊的な存在、このたとえでいえば、劇場に遊びに来ている「神の子ども達」のことです。それは、生まれたり死んだりする人間を体験していますが、自分自身は、生まれることも死ぬこともなく、永遠に生き続ける存在なのです。
 
もう少し、たとえ話を続けます。
私たちは、その個室の中でスクリーンに映し出される仮想世界をみているわけですが、私たちの後ろには大きな書類キャビネットがあり、そこには膨大な記憶や観念の集積が詰まっています。それは私たちの潜在意識です。私たちは、それを使いながら、スクリーンの中の仮想世界で生きるためのさまざまな判断や行動の指令を作り出しています。
 
さらに、各部屋には出入り口があります。それは部屋の中から見れば、書類キャビネットの裏側になります。そこに扉があり、共通のホールに出ることができるようになっています。そのホールにはインストラクターがいます。またインストラクターのメッセンジャーがたくさんいて、インストラクターのメッセージをもって個室のドアを外からノックします。けれども、ドアが書類キャビネットで隠されているので、中に入っている私たちはほとんどそれに気がつきません。
 
実は、共通のホールにいるインストラクターは神です。インストラクターのメッセンジャーというのは聖霊です。私たちの心は、この出入り口を通じて神とつながっており、その出入り口のところには絶えず聖霊が訪れて、私たちに語りかけているのです。けれども、私たちはそのことになかなか気づくことができません。それは、私たちが、大型のスクリーンに映し出されている仮想の物質世界をほんとうの現実だと思い込んでいて、そちらのほうにばかり注意を向けているからです。神につながる心のドアは、潜在意識である書類キャビネットにかくされてしまっています。私たちがドアの存在に気づき、それを開けて聖霊のもたらすメッセージを聞き、ホールに出て神と交わることができるためには、書類キャビネットを捨てなければなりません。それは、自分が過去に蓄積した知識や観念に頼ることをやめるということです。私たちがドアを開けて、ホールのインストラクターにつながることができたら、画面の中の世界とどのようにかかわったらよいかを、インストラクターに直接教えてもらうことができます。それが神の言葉に従ってこの世を生きるということなのです。
 
神は、仮想の世界である物質世界の中にはいません。神はいったいどこにおられるのでしょうか。私たちの注意は、絶えず窓のようにみえる大型スクリーンの方に向いているので、潜在意識のかげに隠れた心の出入り口は心の奥のほうにあると感じます。そして、さらにその奥にある扉の向こう側に、神のいるホールがあるのです。つまり、神のおられる場所は、私たちの意識にとっては、心の奥の奥の奥にあるように感じられます。これが、イエスが「神の国はあなたたちの内部にある」と言われたことの意味なのです。

2001.5.19 第3回エノクの会
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