聖書の新解釈

B9 神と教会



その後、イエスは弟子達とユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼(バプテスマ)を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こうであなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。私は『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

日本聖書協会 新共同訳聖書 ヨハネによる福音書3章22-30節


キリスト教になじみのない方のために、すこし解説をしておきます。
ここに出てくるヨハネという人物は、通常「バプテスマのヨハネ」と呼ばれ、イエスよりもすこし早く活動をしていたユダヤ教の伝道者でした。そして、イエスが伝道活動を始めるときに、イエスに洗礼を授けたのがこのヨハネでした。
 「ラビ」というのは「先生」という意味です。 


イエスはユダヤ地方で洗礼を授けておられました。一方ヨハネもアイノンというところで集まってくる人々に洗礼を授けていました。ヨハネはイエスに洗礼を授けた、いわばイエスの先生であったにも関わらず、人々はイエスのほうにたくさん集まっていきました。

そこで、ヨハネの弟子たちは、先生であるヨハネに、「先生、あなたが洗礼を授けたあの男のところに、みんな行ってしまいますよ」と訴えました。すると、ヨハネは答えました。
「才能も使命も、人の持っているものはすべて天から与えられたものだ。私はお前たちに『私はメシヤ(救世主)ではない』と言ったはずだ。 『私はあの人の先触れに過ぎない』とも言ったはずだ。お前たちはそのことを自分の耳で聞いたであろう。みんながあの人の方に行くのは当然ではないか。」
そして、ヨハネは花婿と介添え人のたとえを語ります。花婿がイエス、介添え人がヨハネを指しているのは明らかです。花嫁は洗礼を受けに来る人たちです。「人々を受け入れるのは神の子イエスでなければならない。私は、イエスを人々に紹介する仲人の役に過ぎない。人々がイエスに受け入れられるのを見れば、私は嬉しい。花嫁が花婿に抱かれるの見れば、仲人の役目は終わったのだ」とヨハネは語りました。
 
註解書によれば、この個所に書かれた出来事は、歴史的事実ではありません。なぜなら、イエスが伝道活動を始めたのは、ヨハネが当時のユダヤの王に疎まれて捕らえられたあとのことです。イエスとヨハネが同時に伝道活動をしていたことはなかったのです。

ではなぜ、聖書はこのような物語を書いているのでしょうか。聖書ができた頃は、キリスト教がユダヤ教からわかれて独立し始めた頃で、キリスト教の教会は当時のユダヤ人に対して自分の正当性を絶えず訴えなければならなかったのです。そこで当時のユダヤ人に絶大な人気のあった伝道者ヨハネが、イエスを神の子だと認め、自分はその足元にもおよばないただの介添え人に過ぎないと言ったという記事を創作したのです。
 
けれども、ヨハネにイエスの宣伝をしてもらうことは、当時のユダヤ人に対しては意味があったかもしれませんが、現代の私たちにとってはあまり意味がありません。私はこの物語を別の意味に読みたいと思います。花婿は神、花嫁はすべての人々、そして介添え人は教会をあらわすのです。
 
神は、キリストを信じた人だけを受け入れるのではありません。神は、信じた人も信じない人も、すべての人を迎え入れたいと思っているのです。けれども、信じない人にはそのことがわからないのです。どんな人であろうと、神が人間を拒否することはありません。人間の方が神を拒否するのです。ですから、教会はすべての人を神に結びあわせる介添え人の役を果たすべきです。そして、人々が神の胸に抱かれるのを見たならば、教会の役目は終わっているのです。教会は、静かに引き下がるべきです。つまり、教会の目的は、人々を教会に集めることではなく、人々を神に結びあわせることなのです。
 
牧師は神の代理人ではありません。代理人というときには、本人はその場にいないのです。たとえば、小学校の卒業式に市長さんが祝辞を述べたりしますが、たいてい総務課長とか教育課長といった人が来て代読します。本人が来れないから、代理人が来るのです。

けれども、神がその場にいないということはあり得ません。神は、いつでも、どこでも、その場にいるのです。ただ、本人がその場にいても、紹介者がいないと話ができないという人もいるので、教会が仲介役を引き受けるのです。 私が、エノクの会というような会を作り、このような話をしているのも、皆さんを神に引き合わせるための紹介者の役をしているのです。「皆さんは誰にも仲介役を頼まなくても、直接神に話しかけていいのですよ」と言っているのです。
 
パウル・ティリッヒという神学者がいます。組織神学という本を書いた有名な人ですが、あるときこのようなことを言ったと伝えられています。 「自分は、神学生の時に、自分自身に対して質問をした。もし将来歴史学や考古学が発達して、ナザレのイエスは架空の人物であるということを証明してしまったら、自分の信仰はどうなるのかと。その答えが私の神学である。」
 
皆さんは、どうですか。イエスが架空の伝説の人物であったとしても、困らないような信仰をもってください。それは、あなた自身が神と直接交わることができる、という状態を確立することです。信仰というのは、聖書に書かれた物語や、教訓が、真実であると信じることではありません。それらの物語や教訓は、人間を神に結び合わせるための手段に過ぎないのです。
 
仲人口(なこうどぐち)という言葉があります。最近は、仲人の紹介で結婚するというような若い人も少なくなったので、このような言葉も廃れかかっていますが、仲人口というのは、花婿候補と花嫁候補を引き合わせるために、仲人が両方の良いところを少し誇大に宣伝して紹介する言葉のことです。宗教が語る話は、いわばすべて仲人口なのです。それは、花嫁である人間に、こんなすばらしいお婿さんがいますよ、と言って神を紹介するための、いわば善意の嘘なのです。
 
人間の花婿なら、仲人の宣伝ほどでなかったと後悔することもあります。けれども、神が花婿なら、花嫁は絶対に後悔することはありません。どれほど誇大宣伝をしようが、宣伝しすぎるということはありません。教会は安心して神を宣伝すればいいのです。宗教の役割は、人間を神と結び合わせることです。もし、それがうまくいったら、ティリッヒが言ったように、イエスが架空の人物であろうがなかろうが、どうでもいいことです。
 
けれども、仲人は花婿の代理人ではありません。花嫁はであるあなた方は、目に見える仲人には目もくれないで、ただひたすら目に見えない花婿すなわち神の方に近づいていってください。皆さんがみんな神の胸に抱かれたなら、そして仲人を通さずに神と直接話が出来るようになったら、そこでエノクの会の使命も終わります。

2001.11.10 第9回エノクの会

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