聖書の新解釈

B10 あなたはキリストです


イエスは、フィリポ・カイザリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。するとイエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書16章13-20節


キリスト教になじみのない人のために簡単に用語の解説をしておきます。
「人の子」はイエスが自分のことを指すのに使われた言葉です。
イエスが「私の父」あるいは「天の父」と言われるときは神を指しています。
「メシヤ」はヘブライ語で「聖油できよめられたもの」という意味で、世界を救う「救い主」を意味します。「キリスト」はそのギリシャ語訳。
「ペトロ(ペテロと書くこともあります)」というのはギリシャ語で岩という意味、現代英語の石油(ペトロリウム)という語につながっています。
「陰府(よみ)」とは、人間が死んでから行く世界のことで、ギリシャ語ではハデスと言います。日本語では「黄泉(よみ)」とも書きます。 


ふつうこの個所は、「イエスがキリストすなわち救い主である」ことを弟子のペトロがはっきり言明したところとされています。イエスの主要な弟子の一人であるペトロが、自分の指導者であるイエスを「神の子、救い主」と認めて、それを表明した個所というわけです。

文章の表面上の意味は確かにそのとおりですが、きょうは、ここでペトロが「イエスはキリストである」とは言っていないことに注目したいと思います。ペトロは「イエスはキリストです」と言ったのではなく、「あなたはキリストです」と言ったのです。

「同じことじゃないか」と思う方がおられるかもしれません。たしかに論理的には、イエスに向かって「あなたはキリストです」というのと、「イエスはキリストである」というのとは、同じことです。けれども、行為として見ると、この二つの間には天と地ほどの開きがあるのです。
 
以前、日本人のある学者がこんな話を新聞のコラムに書いていました。
その人は、仕事の都合でイタリアによく行き、イタリア人の友人もあるそうです。時々、その友人とイタリアのカフェでコーヒーを飲みます。イタリアのカフェというのは、歩道の上にテーブルや椅子がおいてあり、客が座ってコーヒーを飲んでいるテーブルの間を縫って、通行人が通り抜けていくのだそうです。そのような店でコーヒーを飲んでいると、時折、イタリアならではのすごい美人が通るそうです。
この学者はこう書いていました。
「そのような美人が通るとき、日本人の私は、心の中で『すごい美人だなあ』と感嘆しながら、ただ黙ってコーヒーをすすっている。しかし、わがイタリアの友人は、さっと立ち上がってその美女のそばに行き、何事か話しかける。きっとイタリア流のおおげさな表現で『あなたはすばらしい美人だ。今夜時間が空いているが、デートしないか』などと誘いをかけているのである。むこうの女性はなれたもので、そういう彼を無視してどんどん歩いていく。彼は、見えなくなるくらいまで一緒に女性についていくが、しばらくすると、けろっとして戻ってきて、『だめだった』と肩をすくめてみせる。」
 
道を通る美しい女性を見て「彼女は美人だ」と言うのは、誰でもいつでもできます。けれども、それでは何も起こりません。すれ違って、通り過ぎればそれまでです。これに対し、「あなたは美人だ」という言葉は誰にでも言える言葉ではありません。まず相手のそばに近づかなければなりません。そして、この言葉を言うためには、ある程度あらかじめ知り合っておくことが必要でしょう。さもないと、無視されるのはいいほうで、場合によっては警察に突き出されるかもしれません。「あなた」という言葉は誰でも、いつでも、どこででも言えるわけではないのです。そして、言えば何かが起こります。「あなた」という言葉が魔法を起こすのです。
 
同じように、「イエスはキリストである」と百万回唱えても何も起こりません。私たちを救いに導くのは「あなたはキリストです」という言葉なのです。けれどもそのためには、イエスの前に出なければなりません。現在、21世紀の私たちは、どこに行けばイエスに会えるのでしょうか。それを示すのが、はじめに掲げた聖書の文章の後半のイエスの言葉です。
 
イエスは言われました。「あなたにこのことを示したのは、肉体ではない。天にいます私の父なのである」。日本語の聖書では、「あなたにこのことを示したのは人間ではない」と訳されていますが、英語の聖書(注)では、ここはflesh and blood(肉と血)と訳されています。これは人間の霊あるいは魂に対比して、肉体、人間性などを意味する表現です。私は、そちらのほうを取りたいと思います。ペトロに「あなたはキリストです」と言わせたのは、肉体ではないのです。ペトロは脳によって判断したのではないのです。
 
人間の心の奥の奥に、いつも神の光が届いている場所があります。けれども、ふつう私たちはそのことに気づいていません。潜在意識の厚い雲がその光を遮っているからです。けれどもこの聖書のエピソードの瞬間、神の光は雲間から漏れる太陽光線のようにペトロの心の中に入り込み、その中を照らしました。それによって、ペトロは、イエスという肉体をまとってこの世に現れたキリスト(救い主)を、正しくキリストと認めることができたのです。
 
イエスはペトロに向かって「あなたは岩である。私はこの岩の上に私の教会をたてよう」と言われました。これは、ペトロという名前が「岩」を意味するからですが、このときイエスが見ておられたのは、ペトロの肉体ではありません。ペトロに射し込んでいる神の光を見ておられたのです。ペトロに「あなたはキリストです」と言わせたもの、それがイエスの言われる「岩」なのです。それは、私たちにも与えられている「霊性」にほかなりません。
 
肉体の脳には霊的なものを判断する力はありません。霊的なものは私たちの心のうしろ側から私たちの心に入ってきます。それは、私たちの顕在意識の注意が向かっている外界のほうから来るのではありません。それと正反対の、心の内面の奥の奥から来るのです。そして、それに私たちが気づくことができたとき、私たちは脳を通してそれをこの世に表現するのです。
 
イエスの教会はこの世の土台の上に建っているのではありません。それは「霊性」という土台の上に建っているのです。日本語の聖書で「陰府の力もこれに対抗できない」と訳されているところは、英語の聖書では「陰府の入口も力をおよぼさない」と書かれています。陰府の入口とは死にほかなりません。ここは「死の力もおよばない」という意味だと、私は考えています。人間の本質は霊であり、霊性の目から見るならば、生まれたり死んだりする肉体は幻想に過ぎません。物質世界もすべて幻想です。本質において霊的存在である人間は、生まれることもなければ死ぬこともありません。その事実の上にキリストの教会は建っているのです。
 
イエスは肉体の姿をとってこの世に来られました。けれども、いまイエスの肉体はこの世にはありません。イエスはどこへ行かれたのでしょうか。私たちはどこへ行けばイエスに会えるのでしょうか。
 
霊性の世界には、時間も空間もありません。イエスは、私たちのところから去るということはできません。イエスは始めから終わりまで、つねに私たちと共におられるのです。肉体の姿が現われたり消えたりするのは、幻想の世界しか見えない私たち人間の肉体の目にそう見えるだけの話です。

もしあなたが、肉体の目でなく、霊の目によって見るなら、来ることも去ることもなく、生まれることも死ぬこともなく、永遠から永遠まで私たちと共におられるイエスの姿が見えるはずです。「あなたこそキリストです」と告白するためには、イエスの前に出なければなりません。けれども、イエスの前に出るのに、私たちは一歩も歩く必要はありません。ただ霊性の目を開けばいいのです。そのとき、私たちは自分が永遠のイエスの前に立っていることを知るでしょう。そうしなければ、いつまでたっても、私たちは「あなたはキリストです」という言葉を口に出すことはできないのです。

注: The New King James Version

2001.12.15 第10回エノクの会

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