聖書の新解釈

B15 悔い改めと奇跡


ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも、悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

日本聖書協会 新共同訳聖書 ルカによる福音書13章1−5節


昔の人は、災難にあうと、神の罰だと考えました。日本にも天罰という言葉があります。上に掲げた聖書の一節には、ローマの総督ピラトがガリラヤ人を殺して、その血をいけにえの動物の血に混ぜた、という話が出てきますが、この話をイエスにわざわざもって来た人は、イエスがガリラヤの出身であることを知っていて、いやみを言いに来たのかもしれません。 「ガリラヤ人というのは、そういう天罰を受ける部族ではないか」というわけです。
 
昔の人たちは、地震や洪水のような自然災害から病気や盗難や事故にいたるまで、すべてを神の怒りだと考え、神の怒りをなだめるために、さまざまな儀式や祭りを行いました。自分の責任には気がつかず、怒っているのは神様だから、神様をなだめなければならないと考えたのでしょう。一方、現代の私たちは、あらゆることを偶然だと考えます。やはり自分に責任があるとは思っていません。一見、私たちは古代の人々とはまったく違う道を歩いているように見えますが、自分の責任を認めていないという点では同じです。
 
いったいこのような出来事に対して、私たちはどのような責任を負っているのでしょうか。
話を伝えた人に対して、イエスは「あなた達も、悔い改めなければ、同じように滅びる」と言われました。そしてついでに、エルサレムで起こった工事現場での事故の話を付け加えて、ガリラヤ人だけでなく、エルサレムの人々も同じだと言われました。
 
この言葉は、うっかり聞くと「おまえ達も悪いことをしているではないか。そのうちに、お前たちにも天罰が下るぞ」と言っているように聞こえます。けれども、人間が悪いことをしたから神が人間に罰を与えることはありません。すべては神によって赦されているので、起こることができ、することができるのです。

けれども、神に赦されていることがすべて、人間にとって都合のよいことばかりではありません。たとえば、子供が運動場を走って転んでけがをします。「転ぶ」ということは「悪い」ことではありませんが、転んでけがをすれば痛い思いをしなければなりません。それで、子供は転ばないように走ることを覚えます。人間も同じです。人間にできることはすべて神によって赦されているからできるのです。けれども、「悪い」ことをすれば、人をも自分をも傷つけ、苦しい思いや悲しい思いをします。それはすべて、人間が「心の使い方」を覚えるための過程なのです。
 
悔い改めとは「自分が悪い」と思うことではありません。出来事の原因を取り除くことです。あらゆる出来事の真の原因は、私たちの心の中にあるものです。私たちの心は、心の中に持っている観念や感情を、外の世界の現実として体験するという性質を持っています。そこで心の中にネガティブなものを持っていると、ネガティブな現実を体験することになります。
 
普通私たちは、外界にネガティブなものがあるから、それによって、自分がネガティブな観念や感情(怒りや恐れや非難など)を持つようになったのだと思っています。けれども本当は、外界にネガティブなものがあるから、私達がネガティブな観念や感情を心の中に持つのではありません。私たちの心にネガティブなものがあるから、それが外界に現れるのです。したがって、外界を観察すれば、人間は自分の心に隠されている思いを知ることができるのです。
 
「悔い改め」とは、私たちが心の中に持っている観念や感情を変えることです。ネガティブなものを捨てて、ポジティブなものを持つことです。そうすれば、外界は心の中のものを鏡のように映し出すので、外界にポジティブなもの(美しいものや好ましいもの)が現れるのです。
 
「後悔先に立たず」ということわざがあります。後悔というのは、罪や失敗を犯した後で「しまった」と思うことです。心の中のものが災難として現れるということを知っている人なら、災難にあったときに「しまった」と思うかも知れません。けれども、後悔は役に立ちません。後悔ではなく前悔をしなければならないのです。前悔とは、事件が起こる前に心を変えることです。イエスは「あなた達も、悔い改めなければ同じように滅びる」と言われました。
 
いま災難が起こっていないから、そのような災難を呼び寄せるものが心の中にないということは言えません。心の中にあるものが外の世界の体験として現われるには、時間がかかるからです。そして、それが私たちにとっては救いなのです。外に現れないうちに心を変えれば、外の世界で災難を体験することはなくなります。これがイエスの言葉の意味なのです。悔い改めとは「悪いことをしない」ということではありません。「悪い考え(悪い現実を呼び寄せるような観念や感情)をもたない」ということなのです。
 
心の中にあるものが呼び寄せるのは災難だけではありません。私たちに災難をもたらすメカニズムは、私たちに恵みをもたらすメカニズムと同じものなのです。
 
テサロニケの信徒への手紙Tの5章16―18節にパウロの有名な言葉があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。

「どんなことにも感謝しなさい」と言われると、何か人や出来事に対して感謝するように思えますが、本当は「どんな状況の中でも、感謝の気持ちにあふれていなさい」という意味なのです。感謝する理由があるから感謝するのではありません。心の中に感謝があふれていれば、外の世界に感謝の原因になる出来事が生まれるのです。心の中が喜びにあふれていれば、外の世界に喜びの原因が現われるのです。それは、心の中に、怒りや憎しみや貪欲や恐怖や悲しみや絶望があふれていれば、その原因となる出来事が外の世界に現われるのと同じです。
 
悔い改めることを「心を入れかえる」といいます。確かに、悔い改めとは「心を入れかえる」ことなのですが、このとき、私たちが潜在意識というものをもっていることを忘れてはなりません。心を入れかえるとは、潜在意識まで含めて、全部の心を入れかえるということなのです。前回「山に動けと命じて少しも疑わないなら、山が動く」というイエスの言葉を学びましたが、この「少しも疑わないなら」という言葉は、潜在意識も含めて、心の中がすべて「山が動く」という信念になっているということなのです。普通私たちは「山とは動かないもの」という観念を持っています。「動かざること山の如し」といいます。潜在意識に「山は動かない」という信念を持っていたら、その上にいくら「山は動く」という信念を付け加えても山は動きません。潜在意識の中から「山は動かない」という信念を取り除いたときにはじめて、「山は動く」という信念が働きはじめるのです。このときあなたは、山が動いても、それを不思議とは思わないでしょう。なぜなら、あなたには「山は動かない」という信念がなくなっているからです。もしあなたが山が動くことを不思議に思うようなら、あなたには「山は動かない」という信念がまだ残っているということです。このように考えれば、奇跡というのは、それを奇跡と思ううちは起こらない、と言えます。
 
悔い改めとは、古い無益な信念を捨てて新しい有益な信念に取り替えることです。新しい信念を追加することはそれほど難しいことではありませんが、古い信念、とくに潜在意識の中にある古い信念を放棄することはなかなか簡単ではありません。けれども、それをしなかったら悔い改めの効果はほとんどないでしょう。

2002.5.18 第15回エノクの会
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