聖書の新解釈

B20 二人の主人


イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

 日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書14章29−31節

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書6章24節


聖書にはイエスが行なわれた奇跡がたくさん記されています。科学的合理主義思想の普及につれて、このような奇跡を文字通りに信じる人は少なくなりました。きょうの個所も、昔ある牧師が、そこは隠れた浅瀬だったのだという説明をするのを聞いたことがあります。

けれども、ペテロはもともとガリラヤ湖で漁師をしていた男です。浅瀬なら、そのことをペテロが知らないはずはありません。話は逆です。ペテロは、そこが浅瀬ではないことを知っていたので沈んだのです。ペテロは、イエスに「来なさい」といわれて勇んで歩き始めたものの、ふと気がつくと「ここは何もない深いところではないか」ということを思い出してしまったのです。ペテロは自分を支えるものが何もないということに気づいたときに、怖くなってしまいました。聖書は淡々と「怖くなり、沈みかけた」と書いています。怖くなったらなぜ沈むのかということを何も説明していません。その答えは、イエスの「なぜ疑ったのか」という言葉にあります。
 
この物語は、あなたが信じるものは、神か、それとも物質の法則か、ということを私たちに問いかけているのです。ペテロは、イエスを信じたときに水の上を歩くことができました。物質の法則を思い出したときに沈みました。私たちは、自分の意識を体験する世界に住んでいます。神を信じれば神の力が働き、物質の法則を信じれば物質の法則が働くのです。
 
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」という有名な言葉は、誤解されていると私は思います。この言葉は、富という言葉が文字通り「お金」あるいは「財産」という意味に解釈されたために、「お金を持つことは悪いことである」という思想を生み出しました。けれども、私たちが物質世界の法則に従っている限り、お金は必要です。教会も一生懸命献金を集めます。教会もお金がなければ何もできないからです。
 
この聖句の本当の意味を理解するためには、「神と富」という言葉を「神と物質」に置き換えてください。これは「お前たちは神を信じるのか、それとも物質世界を信じるのか」という問いかけなのです。物質世界を信じる者は、神を信じることはできません。神を信じる者は、物質世界を信じません。神を信じる者には、物質世界が仮想の世界であるということがわかるからです。
 
19世紀の終わりごろ、西洋人の調査隊の一行がヒマラヤの奥地に入りました。ヒマラヤに住む伝説的な聖者達の真相を知るためです。大師と呼ばれる聖者たちは、こころよく西洋人たちを迎え入れ、自分たちの生活について、見聞きしたことをそのまま報告するようにと、案内してくれたそうです。

あるとき、調査隊の西洋人たちが大師たちと一緒に道を歩いたことがありました。ほこりっぽい長い道を歩いて目的地に着いたとき、西洋人たちはみんな疲れ果て、汗とほこりでどろどろになるほど汚れていました。ところが大師たちの衣服は真っ白で、まったく汚れていません。不思議に思った西洋人の一人が、大師のひとりに「どうしてあなたがたは汚れないのですか」と聞きました。
すると大師は答えました。
「それはあなたがたには珍しいでしょうが、神の創造物が望まれもせぬのに、又、その所でもないのに、同じ神の別の創造物にくっつくということの方が、わたしどもには珍しいのです。正しい考えができるようになると、そういうことは起こらなくなるものです」(ベアード・T・スポルディング著/仲里誠吉訳 『ヒマラヤ聖者の生活探求:第1巻』 霞ヶ関書房)。
 
聖書の奇跡の話と同じように、このような報告書はまともには信じてもらえなかったようです。けれども私は、皆さんがこの話を聞いて、神を信じるということの「すごさ」を感じていただけたら、と思います。
 
私たちは、物質世界を信じたままで、なおその上に神を信じようとしています。けれども本当は私たちは物質を信じるか神を信じるかのどちらかであって、両方を信じることはできないのです。聖書が「二人の主人に仕えることはできない」というのは、そのことを言っているのです。
 
人間は、物質世界と神の両方を信じようとしてきました。そのため、物質世界に存在するさまざまな悪や不合理や不完全も神がつくったものであると考え、「なぜ、全知・全能・全愛の神が悪を創ったのか」と悩んできました。 けれども、神が創ったものは完全です。逆にいえば、完全でない世界は神が創ったものではないのです。それは幻想です。人間が自分たちで作り出した架空の世界なのです。いま私たちが見ている物質世界の姿は、神が創造した世界の姿ではありません。私たちは神が創造した世界を見ずに、自分の幻想の世界を見ているのです。
 
英国のC.S.ルイスという神学者兼作家の作品に『ナルニア国物語』というお話しがあります。子供向けの冒険物語ですが、さまざまな寓意がこめられていて、大人が読んでもたいへんおもしろい物語です。この物語の最後にナルニア国の「世の終わり」の場面が出てきます。天地が巻物を巻くように巻き取られていって、世界がなくなっていきます。ところが、巻き取られたあとに、前と全く同じ風景のナルニア国が現われるのです。ただし、それは以前のナルニア国より1000倍も美しい平和な世界でした。それが神の創造したナルニア国です。

私たちの地球にも、神が創造したままの地球が今でも存在しています。私たちはただそれを見ればいいのです。けれども、私たちは自分自身の意識によって歪められた世界しか見ていません。もし、私たちが意識を完全にクリアにすることができれば、私たちは神が創造された世界をそのまま見ることができるようになるでしょう。それが奇跡であり、救いであり、世の終わりなのです。
 
私たちは、物質世界が実在する世界であるという信念を持ったままで、その上に神を信じようとしています。けれども、イエスは「二人の主人に仕えることはできない」といわれました。それは、物質世界が実在であるという信念を捨てなければ、神を本当に信じることはできないということです。物質世界が実在でないなら、自分の肉体も、肉体の感覚も、その感覚が見ている影像もすべて実在ではないということです。真の自分、真の世界、真の実在を求めてください。
 
信じるということは、意識の中が入れ替わるということです。そのためには、新しい観念をいれるだけでなく、古い観念を捨てなければなりません。私の話は新しい知識として皆さんの中に入って行くでしょう。けれども、皆さんがいままで持っていた古い観念をどれだけ捨てるかということは、私の力の及ぶところではありません。キリストでさえも、神でさえも、皆さんの心を勝手に作り変えることはできません。それをすれば、皆さんの存在そのものを否定することになってしまうからです。自分の心を入れ替えること、それだけは、皆さん一人一人が、自分で取組まなければならないことなのです。

2002.10.26 第20回エノクの会
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