聖書の新解釈

B12 エゴの正体を知る


それから、イエスは再び群集を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことのできるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」イエスが群集と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分りが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

日本聖書協会 新共同訳聖書 マルコによる福音書7章14-22節 


きょうはエゴについての2回目の話です。
 
冒頭の聖書の文章の意味自体には何も難しいところはないと思います。人の心の中から悪いものが出てくるのであると言われても、「そうだ、そうだ」としか言いようがありません。そして、この悪いものを生み出しているのが、人間の心に巣くうエゴであることもお分かりと思います。

けれども、重要なのはその先です。「だからエゴというのは悪い奴だ」といくら思っても、問題の解決にはなりません。エゴというのは私たち自身の一部なのです。しかも実は重要な一部なのです。エゴというのは、人間にとって不必要なものが寄生虫のように人間に取りついているわけではありません。エゴをいくら憎んでも私たちはエゴを捨てることはできないのです。ではエゴというのはいったい何なのでしょうか。
 
もともと霊的な存在であった人間は、物質世界の体験を得るために、あるとき肉体を作り、物質世界の中に入り込みました。霊的な存在と物質的な存在の最も違うところは、生命の永遠性にあります。霊的な存在は、傷つくことも、壊れることも、死ぬこともありません。そのため、ある伝説によれば、はじめ人間はあまり肉体のことを心にかけていませんでした。ところが、肉体という物質の構築物はもろく、壊れやすく、傷つきやすいものです。絶えず心にかけて面倒を見てやらないとすぐに死んでしまいます。ひところ世界中にはやった「たまごっち」という電子ペットのようなものです。
 
霊的存在としての人間は、直接肉体の面倒を見ているとそれだけで手一杯になってしまうので、肉体が自分で自分の面倒をみるように、肉体に自動操縦装置を取り付けました。それがエゴです。

自動操縦装置は、私たちの日常生活にも広く入り込んでいます。たとえば、どこの家庭にもあるエアコンは、一度温度を設定しておけば絶えず自分でスイッチを入れたり切ったりして、その温度を守るように働いてくれます。このため、私たちはいちいちエアコンの状態に気を取られることなく、他の仕事をすることができます。エゴの役目も同じです。エゴは、肉体をもった人間の最も基礎的な必需品である肉体の快適さと個人的人格の快適さを維持するために、自動的に最大限の努力をします。それがエゴの本来の役目だからです。
 
冒頭の聖書にあげられている「悪」をよく見てください。ここにあげられている悪は四つに分類することができます。
  物欲:  盗み、貪欲、詐欺、ねたみ
  性欲:  みだらな行い、姦淫、好色
  攻撃性: 殺意、悪意、悪口(冒涜)、傲慢
  その他: 無分別(愚かさ)
これらは、最後の一つを除けば、すべて人間にとって必要なものであることがわかるはずです。肉体を維持するためには、食料、住まい、衣類、道具などさまざまな「物」が必要です。もし人間に物欲がなかったら、人間は原始の生活のなかですぐに飢え死にしたでしょう。もし人間に性欲がなかったら、人類は種としてたちまち滅亡してしまいます。攻撃性というのは、障害物を排除して目的を達成しようとするチャレンジ精神です。もし攻撃性がなかったら、狩で獲物を捕らえることもできず、幾多の困難を乗りこえて、畑に作物をつくったり、社会を形成したり、していくこともできなかったのです。

つまりここにならべられている悪の大部分は、本来は個人および種族としての肉体人間を維持していくために必要な精神の働きなのです。それがなぜ悪に変わったかというと、それは人間が社会を形成するにつれて、環境が自然環境から社会環境へと変わっていったからです。たとえば、盗みという行為は、狩猟や採集という原始経済の手法と同じ行為です。ただ、手つかずの自然が残っていた時代に自然の森から果物を取ってくるのと、隣の八百屋の店先から取ってくるのとは違います。つまり、社会というものが形成され、社会のルールというものが出来上がっていったときに、もともとの自然的な機能そのままではそのルールにぶつかってしまうということが起きているのです。いわばエゴ同士のニアミスです。

このような社会的ルールにもとづく悪というものは、社会によって異なる場合もあります。だからといって、このような悪の問題が人為的な問題であるから、宗教的な重要性がないと言っているのではありません。それは、エゴに対しての高次のコントロールが必要な時代に変わってくるという、霊性回復への道筋に乗っているのです。
 
自動操縦装置は飛行機にもついていますが、飛行機の自動操縦装置は、操縦士が介入すると自動的に切断されるようになっています。人間の自動操縦装置に対しても、必要な場合には「操縦士」が介入しなければなりません。もし他の飛行機とニアミスを起こしているのに自動操縦装置に任せっぱなしにして衝突したとしたら、悪いのは自動操縦装置ではなく、介入を怠った操縦士のほうです。人間の場合にも、エゴが悪いのではなく、介入しないで放置している「操縦士」が悪いのです。
 
では人間の場合、「操縦士」とは何でしょうか。それは、エゴよりも高次の意識です。私たちは、心の中にエゴよりレベルの高い意識の部分を発達させなければなりません。実はそれはすでにあるのですが、私たちは、そちらのほうとの接続を断ち切ってしまっているのです。そしてうまくいかないと「自動操縦装置が悪い」と言います。
 
人間が霊性を回復する過程では、エゴを取り除くのではなく、エゴを自分の意識の一部として統合し、全体が調和の取れた総合的意識になっていかなければなりません。そのことについては来月お話ししますが、きょうここでは、単にエゴというものを「悪い、悪い」といって罪をなすりつけるだけでは済まない、ということだけ理解していただきたいと思います。
 
エゴは、悪者扱いして排除すればするほど強くなり、手におえなくなります。エゴの本来の役目を理解し、エゴに人間存在の高い目的を教えてください。もともとエゴは、あなたの存在目的の達成に協力するためにつくられた自動操縦装置なのです。エゴに人間の高い存在目的を繰り返し教えてください。そうすれば、エゴは喜んでそれに協力するようになります。そのことを信じてください。エゴの協力が得られるようになれば、霊性回復への道は効率的で楽なものになります。愛と感謝をもって、エゴを統合することに取り組んでください。

2002.2.16 第12回エノクの会
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