聖書の新解釈

B11 エゴに気づく


「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る量りで量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書7章1-5節


私たちは、人間の心にエゴと呼ばれる自己中心的な部分があることを知っています。そしてエゴというのは悪いものだと思っています。けれども、ただ「エゴは悪いものだ」と思うだけでは、ほとんど何の役にも立ちません。悪いと思うだけでは、それを取り除くことはできないからです。

本当は、エゴというのはただ悪いだけのものではありません。これから3回にわけて、エゴについてお話ししたいと思います。

第1回のきょうは、エゴが私たちの知らないところでどのような動きをするかということと、それに対してどう対応すればよいか、ということをお話しします。

まず第一に、きょうの聖書の個所を読んで、「人を裁くのは悪いことである」と考えないでください。聖書の中には「こうしてはならない」という言葉があちこちに出てきます。これらの言葉はすべて、「これは悪いことである」と言っているのではなく、「あなたがたのためにならない」と言っているのです。B6 現代の偶像礼拝では「わたし以外のものを神としてはならない」という出エジプト記の言葉が、「わたしの手を離すとあなたは迷子になりますよ」というお母さんの言葉と同じだということをお話ししました。きょうの個所についても、人を裁くことは「あなた自身のエネルギーを失うことですよ」という意味であることは、B5 神の正義と人の正義でお話ししました。きょうは、それとは違う角度から見てみたいと思います。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」という最初のフレーズの中で、あなたがたが「誰から裁かれるか」ということが書いてないことに注意してください。あなたを裁く人がどこかにいるわけではありません。神があなたを裁くわけではありません。実は、「裁く」という行為そのものが自分を裁くのです。人を量ること自体が、実は、自分を量ることなのです。日本語の聖書では「量り与えられる」と書かれていますが、英語の聖書では「量り返される」となっています。量ろうとすると量り返される、それが宇宙の真理なのです。なぜなら、あなたが外界に見ているものは、すべてあなたの心の中だからです。あなたが外界だと思って見ているものは、すべてあなたの心が自分で描き出している姿なのです。それについて、あれはよい、これは悪い、と評価をくだすことは、とりもなおさず自分自身の意識の評価をすることなのです。
 
第二のポイントは丸太という言葉です。「あなたたちの目には丸太が入っている」という言葉は、私たちが真実を見ることができないということを意味しています。私たちが見ているのは、自分の目の中にある丸太なのです。英語の聖書では丸太というよりは厚板という意味の言葉が使われています。私たちの目は厚板でふさがれていて、私たちはその内側に自分で描いた絵を見ているのです。

丸太あるいは厚板とは何をさしているのでしょうか。それはわたしたちの心の中にある「潜在意識」のことです。人間はみんな自分の心の中にスクリーンを持っていて、そこに映る姿を見て、外の世界を見ていると思っています。けれどもそのスクリーンの絵は、自分で描いているのです。それは、厚板の上に投影された自分の意識の影なのです。私たちは、意識の大部分が潜在意識になっていますから、自分で描いていてもそれが理解できず、見えているものが客観的な真実であると考えるのです。
 
イエスは「あなたたちの目の中から丸太を取りのぞきなさい。そうすれば、物事がはっきり見えるようになって、ほかの人の目にあるごみを取ってあげることができるであろう」と言われました。それは「潜在意識がなくなって、目を覆っていた厚板が取り除かれたときにはじめて、あなたたちは真実の世界を見ることができるようになる」ということなのです。真実の世界とは「自分で描いた絵」ではなく、神が創造した世界の姿という意味です。私たちは自分の潜在意識の中を完全にクリーンにしたときに、初めて神が創造した世界のほんとうの姿を見ることができるのです。
 
第三のポイントは「裁く」とはどういうことかということです。実は、私たちはいつも、ほとんど絶え間なく、無意識に、人を裁き、世の中を裁き、そして自分をも裁いています。人を裁くのはよくないが、自分を裁くのはよい、というわけではありません。実は対象が何であろうと関係ないのです。「裁く」という行為の中に一つのわなが隠されているのです。
 
私たちは毎朝起きるとすぐに、新聞やテレビのニュースで世の中の出来事を知ります。そして、「何と嫌な世の中になったのだろう」と暗い気持ちになります。戦争やテロのニュースだけではありません。汚職や医療ミスや銀行の倒産など、暗いニュースは山ほどあります。政府が悪い、国会議員が悪い、銀行が悪い、警察が悪い、医者が悪い、経営者が悪い、マスコミが悪い、・・・いまの時代、悪いもののリストを作るのに苦労はありません。そのようなニュースを見て、私たちの心には、非難、怒り、あきらめ、絶望などの暗い感情が生まれます。実は、これらの感情のすべてが、世の中を裁いていることになっているのです。
 
「裁く」という言葉は、もともと「分ける」という言葉から来ています。白と黒、善と悪、価値のあるものとないもの、などを分けるのが「裁く」ということです。けれども、その判断の基準は何でしょうか。それは「裁く」ひとが自分で持っている価値判断の基準です。すべてのひとが、自分の持っている判断基準で判断します。もちろん、私たちはその基準をできるだけ社会的合意によって統一しようとします。けれども、どんなに統一しても、一人一人が自分の判断基準によって判断していることには変わりありません。
 
実はこれが、「裁く」という行為の中に隠されている「わな」なのです。「裁く」という行為が決して裁かないものがあります。それは自分自身の価値基準です。私たちは、さまざまな価値判断をしているときに、自分がどのような基準によって判断しているのか、なぜその基準を使うのか、ということを意識することはほとんどありません。そして、その基準を使って判断している者はいったい何者なのか、ということについては、まったくと言っていいほど、意識にのぼることはありません。
 
実はすべての「裁き」はエゴの仕業です。エゴは絶えず「裁くもの」になりたがり、世の中の出来事を「よい出来事」と「悪い出来事」にわけ、世の中の人を「よい人」「悪い人」に分類します。そして、よい人やよい出来事にはあまり注意せずに、悪い人や悪いことを批判することにエネルギーを注ぎます。
 
エゴは一見自分自身を批判するような高級なテクニックも使います。けれども、そのときよく見てください。自分自身が「批判する自分」と「批判される自分」に分かれています。エゴは自分の抜け殻を「批判されるもの」のところに置いておいて、自分はさっと「裁くもの」の側に立つのです。
 
エゴはなぜこのようにして、「裁くもの」となりたがるのでしょうか。その理由は二つあります。一つは「裁く」立場に立つことによって優越感を得るためです。けれども、これはどちらかと言えば、副次的な理由です。本当の理由はもう一つのほうにあります。それは、「裁かれる」ものについて「自分には責任がない」ということを主張するためです。実は、外界を描いているのはエゴです。けれどもそこに描かれたものを「あいつが悪い」と叫ぶことによって、エゴは、それを描いたものが誰であるかという問題を隠してしまうのです。エゴは自分が描き出した世界を裁く(批判する)ことによって、それが客観的な存在であるという観念を作り出し、それが、自分とは関係なくそこに存在していると自分自身に信じさせる状況を作り出してしまうのです。これがエゴの戦略です。エゴは裁くことによって自分の存在を隠そうとしているのです。
 
このようなエゴの仕掛ける巧みなわなにどうやって立ち向かえばいいのでしょうか。エゴを非難すれば、あなたも「裁くもの」になり、あなたはエゴと同じ闇の中に引きずり込まれてしまいます。
 
エゴに対抗するには、ガーデニングのやり方にならってください。あなたは、鉢植えや庭木の花が咲かなかったり、葉が枯れてきたりしたらどうしますか。「この木はだめだ」とか「この花は悪い花だ」と言いますか。そうではなく、肥料が足りないのではないか、水が足りないのではないか、日当たりが悪いのではないか、などと考えるのではないでしょうか。

エゴに対する道も同じです。エゴの仕掛けるわなに気づいたら、エゴに愛のエネルギーが足りないのだな、と気づいてください。(愛のエネルギーについては、B5 神の正義と人の正義を見てください)。誰かを批判したくなったら、その相手と自分に愛のエネルギーを送ってください。世の中が嫌なことばかりだ、と不満が湧き出してきたら、世の中と自分とに愛のエネルギーが不足しているのだと考えて、両方にエネルギーを送ってください。あなたが見ている世界は、あなたが自分の心の中のガーデンに育てている植木や鉢植えなのです。

2002.1.19 第11回エノクの会
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