聖書の新解釈

B31 神に恋をしなさい


心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書22章37節


神が全知・全能であるとはよく言われることですが、私はそれに「全愛」であるという言葉を加えたいと思います。「全愛」というのは聞いたことのない言葉ですが、「完全な愛」という意味で、私が作った言葉です。

神が全知・全能・全愛であることを徹底的に信じてください。これがあらゆる信仰の基本です。どのような論理であれ、これを疑うような考えはすべて拒否してください。
 
神を信じない人たちがよく使うのは「悪の存在をゆるすような神は、全知・全能でないか、愛がないかのどちらかである」という論理です。これについては後でお話ししますが、このようなまやかしの論理に惑わされずに、神が全知・全能・全愛であることを絶対的に信じてください。
 
まやかしの論理はこう言います。「悪が存在する世界は不完全である。もし神に完全な世界を作る能力がなかったというなら、神は全知・全能ではない。もし、完全な世界を作る能力があるのに、作らなかったというなら、神には愛がない。したがって、神は全知・全能でないか、全愛でないかのどちらかである」。
 
この推論には間違いはありません。神が全知・全能・全愛であれば、神が創ったものはすべて完全であるはずです。もし神が不完全な世界を創ったとしたら、神は全知・全能でないか愛がないかのどちらかです。

ロボットを作る技術者のことを考えてみてください。人間の技術者でさえ、何か作るときにはできるだけ完全なものを作ろうとするのです。これが仕事に対する愛というものです。けれども、人間の技術者は、完全なロボットを作ることができません。人間のつくったロボットは、故障をしたり、間違った動きをしたり、不器用な動作しかできなかったりします。それは、人間の技術者に、智恵や知識や注意力が足りないからです。

けれども、神は完全です。神は全知・全能・全愛です。したがって、神によって創られたものは、すべて完全です。物質世界も、地球も、その上のすべての生き物も、人間も、すべて完全です。
 
けれども、このことは、いま私たちが見ている世界が完全であるということを意味しているのではありません。これを混同しないようにして下さい。「神が創った地球、神が創った世界、神が創った人間・・・」、それが何であれ、神が創ったものであるなら、それはすべて完全であるということです。

神を絶対的に信じるということは、神の被造物が完全であることを絶対的に信じるということです。世界中のすべての人が完全であることを信じてください。あなた自身が完全であることを信じてください。たとえ人がどれほど非道な残虐な姿を表していようとも、あなた自身がどんなに惨めな状態にあろうとも、完全であることを信じてください。
 
「神が創ったものは完全である」ということと、「現実に私たちが見ている世界が不完全である」ということとは、どう折り合いをつけるのでしょうか。そこから出てくる結論は、一つしかありません。「私たちが現実に見ている世界は神が創ったものではない」ということです。

神は不完全なものは創りません。逆にいえば、不完全なものは神によって創られたものではありません。神によって創られたものでないものは、それがどんなに現実的な存在に見えようとも、非現実、非存在であり、幻想に過ぎません。

この「不完全なものはすべて幻想である」ということを理解することが非常に大事なのです。もし私たちが見ている世界が不完全であるなら、それは私たちが、神が創った本当の世界を見ていないということを意味しています。
 
私たちの普通の常識的考え方では、まず、この世が不完全であることを認めます。戦争や災害や犯罪が限りもなく起っている世界を、誰も完全であるとは言いません。それと同時に、常識的考えでは、この不完全な世界が現実であり、実在であることを疑いません。

先ほどのまやかしの論理は、不完全な世界が実在であるという前提から出発したために、神は不完全であるに違いないという結論に到達したのです。この論理の推論は間違っていません。ただ、「不完全な世界が実在である」という出発点が間違っているのです。
 
一方、普通の宗教は、神が完全であるということと不完全な世界が実在であるということを、両方とも真実であると考えます。そのために、途中でさまざまな辻褄合せをしなければならなくなります。「神は完全な人間を創ったが、人間が神の命に背いて堕落した」という物語もその一つです。けれども、簡単に堕落するような人間は完全とはいえません。それでは、神は、すぐ故障するロボットを作っておいて、「こいつが故障したから悪い」と言っている無能なエンジニアのようなものではありませんか。普通の宗教の立場は中途半端なのです。
 
けれども、皆さんは「神が完全である」ということだけを真実の出発点にしてください。その当然の結果として「不完全なものは真実の存在ではない」という結論になります。いま私たちが見ている世界は、真実の存在でないものが真実の存在であるかのように見えているのですから、幻想です。

イエスが「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われたのはこの意味です。これは「神を信じること」と「物質世界を信じること」は両立できないという意味なのです。「神が完全であること」つまり「神が全知・全能・全愛であるということ」と、「不完全な世界が実在する」ということは決して両立できないのです。
 
「物質世界が幻想である」というと、私たち人間はみんな麻薬に冒されているのか、と考える人があります。けれども、世界中の人間がみんな麻薬患者になっているわけではありません。なぜなら、物質世界の幻想を見ているのは肉体ではないからです。肉体の脳が狂っているわけではないのです。

物質世界の幻想を見ているのは、霊です。スピリットです。イエスは「神は霊である」といわれましたが、実は、人間も霊なのです。神が創った完全な人間というのは、霊の人間のことです。その霊の人間が幻想を見ています。それは、ちょうど私たち人間が夢を見るようなものです。霊の人間が、物質世界の中の肉体人間になった夢を見ているのです。
 
夢を見ているときには、夢の中の世界が現実に思えます。同じように、肉体人間にとっては、物質世界は現実の世界に思えます。肉体人間は夢の中の存在だからです。けれども、霊の人間にとっては、それは夢なのです。神も、神によって創られた霊の人間も、完全な存在ですが、夢の中では、いくらでも不完全な存在になることができます。これが、私たちの世界が不完全である理由です。
 
では、幻想を捨てるために、夢から覚めるために、私たちは何をすればよいのでしょうか。

幻想を捨てるためには、幻想を幻想であると知り、それを捨てる決意をすることが必要です。けれども、ただ幻想を捨てようと思っても、捨てることはできません。幻想を捨てるためには、本物を求めることが必要なのです。本物が見えるようになれば、自然に幻想は消えていきます。ここに「神を信じる」ことの重要性があります。
 
神を信じるということは、神が創られた世界を信じることであり、神が創られた世界の完全性を信じることです。いま、私たちは毎日のニュースを聞いて、世界が不完全であるという思いをますます強くしています。けれども、これは私たちが、神が創られた世界を見ていないという証拠です。それは、にせものの世界です。本物を求めてください。神が創られた世界の完全性を信じ、その世界を見ようという決心をしてください。
 
あなたの一日の時間の中で、物質世界を信じている時間と神を信じている時間のどちらが長いでしょうか。一週間のうち一日だけ教会に行って一時間ほど神に心を向けますが、それ以外の時はいつも物質世界にばかり心が向いているというのでは、いつまでたっても夢から覚めることはできません。
 
イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」といわれました。ここに「愛しなさい」と言われているのが重要なのです。「あなたは物質世界と神とどちらを愛しますか」と言われているのです。「どちらが好きですか」と問われているのです。神に恋をしてください。恋をする人が、毎日、毎時間、いつも恋人のことを思いつづけるように、神を思い、神が創られた世界を思ってください。
 
「彼を愛することは正しいことだから愛する」というような恋はありません。私たちが神を愛するのは「正しいことだから」ではありません。神が創られた世界が素晴らしいものだから愛するのです。ただ、神の創造の美しさを信じて追い求めてください。

2003.9.20 第31回エノクの会
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