聖書の新解釈

B28 完全でありなさい


「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書5章43−48節


この聖句もよく知られた個所です。「敵を愛しなさい」という言葉は、今日ではクリスチャンでなくても知っています。けれども、知っているだけで誰もそのようにしようとはしません。しようとしてもできません。できないのは、そもそも「敵を愛する」という言葉自体が自己矛盾だからです。敵というのは愛していないもののことをいうのです。愛したらその瞬間に「敵」は消えてなくなります。「敵」という概念が頭の中に残っているあいだは、愛してはいないのです。

私たちがこの聖書の個所を道徳的な戒めとか正しい行いの勧めとして聞いているあいだは、私たちは、イエスの言葉に従うことはおろか、理解することさえできないでしょう。

イエスの言葉の真意を理解するためには、この聖句を終わりのほうから読んでください。まず最初に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」というところに目を留めてください。
 
「あなたがたも完全な者となりなさい」といわれて、怖気づいている人はいませんか。「そんなことはとてもできない」と思っている人はいませんか。「完全な者になれると思うのは傲慢だ」と思う人はありませんか。

そういう人は、この聖句を取引の一種だと考えています。私たちが自分の力で完全なものになるのだと考えています。私たちが「よいこと」をすれば、完全な者になれるのだと考えています。けれども、何度もお話しているように、神は私たちと取引をすることはありません。神は私たちがよいことをしたからといって褒美をくれることもないし、悪いことをしたからといって罰を下すこともありません。神は、私たちの行いに無関係に、ご自分のしたいことをなさるのです。
 
ちょっと考えてみてください。神は人間を作るときに、どんな人間をつくりたいと思われたでしょうか。不完全な人間をつくりたいと思われたでしょうか。それとも、完全な人間を作りたいと思われたでしょうか。人間でさえ、何かを作るときには、できるだけ完全なものを作りたいと思います。神も同じです。神は完全な人間を作ろうと思い、そして、そのとおりに完全な人間を作りました。人間は完全なものを作ろうと思ってもつくれませんが、神は完全ですから、人間を作るときにも完全な仕事をしました。

神は完全な人間をつくりました。だから私たちは完全です。人間は今すでに完全なのです。私たちがよいことをしたら完全な者になるのではありません。神が私たちを完全な者につくったから、私たちは完全なのです。
 
けれども、間違わないでください。いまこの地上にある私たちの姿が完全だというのではありません。もしそうなら、イエスが地上に降りてこられる必要もなく、「完全なものとなりなさい」と教える必要もなかったでしょう。完全なのは「天にある私たち」の姿です。「天にある私たち」とは私たちの元型です。地上にある私たちの出て来たところであり、あるべき姿です。それは完全です。なぜなら、それをつくったのは神ご自身だからです。

けれども、この地上にどんな姿をあらわすかは、私たち自身にまかされています。私たちは、完全な人間の姿を地上に現すこともできれば、不完全な姿を現すこともできます。それは、神が私たちに美しい服をつくって下さったようなものです。私たちはそれを着て町を歩くこともできますが、それは大切にしまっておいて、代わりに自分でつくったぼろを着て泥んこ遊びをすることもできます。「泥んこ遊びが好きならそれでもいいが、もし泥んこ遊びにあきたなら、身体を洗って私があげた服を着なさい」と神はいわれるのです。それがイエスの言葉の真意なのです。 「天の父が完全であるように、天のあなたたちも完全である。だから、その天にあるあなたたちの完全さを、この地上にもあらわしなさい」とイエスは言われているのです。
 
地上に「完全」をあらわすとはどういうことでしょうか。それが、聖句の前半の文章に書いてあります。私たちは、世の中の人たちを、これは味方、これは敵、と分類し、敵を拒絶し排除しようとします。けれどもイエスは言われます。「そのようなことは異邦人や徴税人でもやっているではないか」と。

異邦人とは、文字通りには外国人ということですが、聖書で異邦人というときは、神を知らない人たち、この世だけがすべてだと考えている人たち、現代的にいえば無神論者や唯物論者のことです。徴税人という言葉は、少し注釈が要ります。当時、ユダヤはローマに占領されていました。そこで、税金を取り立てるのも、ローマ軍であり、取り立てた税金もローマに持っていかれました。その税金の取立てに従事したユダヤ人が「徴税人」と呼ばれる人たちです。当然この人たちは、占領軍に協力するものとして、ユダヤ人社会からは強く非難されました。裏切り者、売国奴と見られていました。

そういう、ユダヤ人から強く非難されていた人たちを例にあげて、イエスはこう言われます。「味方だけを愛し、敵を憎むのは、あなた達が非難するそういう人たちでもやっていることではないか。もし、あなたたちが、神を信じ、神に信頼しているというならば、神が悪人にも善人にも日光を与え雨を降らせるように、わけへだてなく愛を振りまきなさい」。それが、完全を地上にあらわす、ということなのです。
 
「天の父の子となるためである」という言葉は、そのようなことをしたら、ご褒美に神の子にしてあげようという意味ではありません。そのようなことをしているとき、あなたは神の子として振舞っている、という意味です。それが神の子らしい振る舞いである、という意味です。
 
普通キリスト教で神の子といえば、イエスのことを指しています。けれども、ここの聖句には「あなたがたの天の父」いう言葉が二度出てきます。もともと「父」というのは「子」を想定した言葉です。もし神が私たちの父と呼ばれるのなら、私たちが神の子であるのは明らかです。「蛙の子は蛙」といわれるように、神の子は神です。「天にある私たち」すなわち「私たちの元型」というのは、実は神ご自身なのです。それは創世記に「神は自分に似せて人間を作られた」と書かれているとおりです。だからイエスは言われるのです。「あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」と。それは「あなたたちの元型である神は完全なのだから、地上におけるあなたたちも完全な姿を表わし得るはずだ」ということです。
 
以前にもお話ししましたが、この世の常識は、悪に対して備えをし、悪から身を守り、悪を排除し、悪を正していくべきである、と教えます。これは悪が存在しつづけることを前提にした考え方です。けれども、神の論理は違います。世の中に愛をあふれさせれば、悪は根本から消えてなくなる、というのが神の論理です。悪は本来非存在なのです。なぜなら悪とは、人々の心に愛が足りないという状態に過ぎないからです。光がないところに闇があるように、愛がなければ恐怖が生まれます。恐怖は、怒りや憎しみを生み、不信や猜疑心を生み、とどまるところをしらない悪循環に落ち込んでいきます。これが人類が遊んでいる泥んこ遊びです。私たちの心に愛があふれるならば、敵も味方もなくなり、私たちの心から恐怖が消えます。
 
私たちは完全です。完全なものは永遠です。私たちが死んだり消滅したりすることはありません。あらゆる所有物を奪われ、肉体も生命も失ったとしても、なお私たちは存在しつづけ、生きつづけます。怖れるものは何もないとほんとうにわかったときに、私たちはほんとうに光の子になるのです。

2003.6.21 第28回エノクの会
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