聖書の新解釈

B22 わたしは復活であり、命である


マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

日本聖書協会 新共同訳聖書 ヨハネによる福音書11章21−27節


マルタとイエスの対話は微妙にすれ違っているように感じられます。イエスは現在における復活について語っているのに、マルタは「終わりの日」の復活について語っています。マルタにとって、それは遠い未来のいつかなのです。

また、「このことを信じるか」と問いかけられたマルタは、「あなたがキリストであると信じています」と答えました。マルタは、イエスがキリストであることは信じますが、「私を信じる者は決して死なない」というイエスの言葉を信じるかどうかについては、明言を避けたように見えます。
 
このようなマルタの心情は、現代における私たちにおいてもほとんど共通しているように思います。私たちは、永遠の生命とは死後の生命のことであり、復活は遠い未来の出来事であると考えていないでしょうか。「イエスは神の子である」と信じると同時に、「私たちは物質の塊である」と信じているのではないでしょうか。私たちの信仰も、イエスの教えられた信仰とは微妙にすれ違っているのです。
 
私たちは、自分から遠く離れたところでは神の力が働いていると信じます。けれども、自分自身と自分の周りは物質の力によって支配されていると信じ込んでいます。B20 二人の主人というところでお話ししましたが、物質世界を信じた上にさらに神に対する信仰を積み重ねようとしている、というのはこのことです。

私たちは、水の中に住んでいる魚が、自分の周りに大きな気泡を作り出し、その中に住んで「苦しい、苦しい」と言っているようなものです。私たちは神の中に住んでいながら、自分の周りに物質世界という魔法の壁紙に囲まれた領域を作っているのです。
 
イエスはマルタに向かって「あなたの兄弟は復活する」と言われました。このイエスの言葉は、英語の聖書によれば、復活というような難しい言葉を使っていません。「あなたの兄さんはまた起き上がるよ」というような感じです。これに対してマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは知っております」と答えました。マルタは死んで4日もたった人間が甦るなどということは、想像もできなかったのです。マルタはイエスが救い主であると信じていますが、同時に物質世界の法則を信じていました。このマルタの姿は、現在の私たちの姿でもあります。
 
マルタの言葉に対して、イエスは「わたしは復活である」と言われました。日本語の聖書では、マルタとイエスのやり取りの微妙なつながりが読み取れませんが、ここはむしろ「私がその復活である」と訳したいと思います。「あなたの言っている復活とは、私のことなのだ」とイエスは言われたのです。

イエスは続けて言われました。「私は命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は、決して死ぬことはない」と。イエスは肉体の姿をとってこの地上を歩きました。けれども、肉体の姿とは、人間の目に映った幻のイエスにすぎません。本当のイエスは永遠の生命であり、人間の生命そのものであるのです。

永遠の生命を信じる者は永遠に死を経験することがない―――これが、神が人間に与えた最大の恵みであり、救いの本質なのです。
 
マルタは「あなたが来るべきメシアであると信じています」と言いましたが、イエスを信じるというのは、「イエスは・・・である」というように、イエスについての「事柄」を信じることではありません。イエスそのものを信じることです。イエスそのものに信頼することです。それは永遠の命に信頼することであり、神の愛に信頼することです。
 
私たちは、自分から遠く離れたところには神の力が働いていると認めますが、自分とその周りは神の力の届かない物質世界だと考えています。

この関係を逆転させてください。遠くの方で何が起こっていようと、私と私の周りは神の力に取り囲まれた聖なる領域であると自分の心に断言してください。それが真実なのです。物質世界と見えているものは架空の存在です。真実に存在するものは神の力だけです。それ以外は、存在するように見えても、実は実体のない幻想なのです。
 
私たちの身の回りに何か不具合が起こっているとき、これまでの伝統的な考え方は、それを物質世界の法則に基づくものと考えるか、神によって与えられた運命あるいは摂理だと考えるかのいずれかでした。この二つの考え方は正反対に見えますが、実は共通性があります。それは、どちらにしても私たち自身には責任がないということです。私たちはただそれに翻弄されている被害者だということです。

実は、これはエゴが作り出すもっとも巧妙な策略です。私たちが経験する世界は私たち自身が自分で作り出して経験している世界なのです。けれどもエゴは、そのことを隠すために、すべては神の責任だという思考を生み出したのです。エゴは、自分が作り出した世界の責任を問われるのを怖れているのです。
 
神が世界を創ったというのは真実ですが、私たちが経験している世界が神の創った世界であるかどうかは保証の限りではありません。神が創った世界を経験するか、それとも他の世界を経験するかという自由が人間には与えられているからです。この自由が人間の本質なのです。私たちは、「神の創った世界を体験すること」を自分で選ばなかったら、神の創った世界を体験することはできません。
 
「他の世界」とは、神の創らない世界ですからそれは架空の世界です。「私は神が創った世界を体験します」と心に決めて下さい。それが神を信じるということです。それは、自分が肉体であり物質であるという観念を捨てることです。人間は、永遠の生命であり、聖なる光の存在です。もしあなたがこのことを本当に信じることができたら、それがほんとうにイエスを受け入れたということです。なぜなら、永遠の生命とはイエスの本当の姿だからです。
 
「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことがない。あなたはこのことを信じるか」とイエスは言われました。あなたはこの問に何と答えるのでしょうか。

2002.12.14 第22回エノクの会
inserted by FC2 system