霊性の時代

A8 愛のエネルギー


 「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(*1
  「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(*2)

聖書の中にはクリスチャンでない人でもよく知っている言葉が数多くあります。上に掲げた「敵を愛しなさい」という言葉もその一つではないでしょうか。これらの言葉は悪に抵抗するなと教えています。抵抗しないだけでなく、敵を愛しなさい、あなたに悪をなすもののために祈りなさい、とまで言っています。私たちも「人を愛さなければならない」ということは知っています。「罪を憎んで人を憎まず」といいますが、悪いことをした人でも何とかして愛さなければならない、と一生懸命努力をしているのです。けれども一方で、私たちは悪に対して断固とした姿勢を取るべきであるという考えも持っています。もしも聖書がいうように、悪をなすものに「甘い顔」ばかりしていたら、ますます悪を助長し世の中は収拾がつかなくなる、悪ははじめの段階で断固として摘み取るべきである、と考えます。こうして私たちは、愛と正義のあいだで立ち往生するのです。

この問題は人間が「愛」とは何かを知らないことから起こっています。そのために、人間はなぜ悪人が生じるかを理解できず、したがって悪をなくすために何をしたらよいかもわからないでいるのです。人間は長い間正義を求めて戦ってきましたが、地球の上から悪をなくすことには成功しませんでした。それは人間の正義が悪をなくすことに役立たないからです。

聖書は悪に対して無抵抗と愛をもって対するようにと教えます。これが神の正義なのです。神においては、正義と愛のあいだに矛盾はありません。それは「愛」の性質によるのです。なぜそうなるのかを私たちは学び、人間の正義の代わりに神の正義を身につけるべきです。そうでなければ、私たちはいつまでたっても人間世界から悪をなくすことには成功しないでしょう。

そのためには、まず「愛」とは何かを知らなければなりません。ふつう私たちは、「愛」を何かの行動であると考えています。愛とは「何かをする」ことだと考えています。愛とは、人のためになることをすることであり、人にやさしくすることであり、人を好きになることだと考えています。けれども、本当は「愛」というのは一種のエネルギーなのです。それは物理的なエネルギーではありませんが、あらゆる存在を支え、生かし、成長させる神のエネルギーです。それは生命そのものです。「愛の行い」はそのエネルギーが生み出す一つの表現に過ぎません。

人間はこの愛のエネルギーによって生かされています。もしこのエネルギーが不足すると、どこからか補充しなければ生きていけません。本当はこのエネルギーは直接神からもらうべきものなのですが、そのことがわからない人たちは他の人から取り上げようとして「愛エネルギー」の奪い合いをはじめます。これが人間界に悪が存在する理由です。人間の行動は、基本的には二種類しかありません。一つは愛による行動であり、もう一つは愛の欠乏による行動です。すべての善は愛エネルギーを与える行為であり、すべての悪は愛エネルギーを奪う行為です。子供たちのいじめも、国家や民族のあいだの戦争も、すべてが「もっと愛エネルギーをほしい」という叫びなのです。

人間の正義は、悪と戦う正義です。それは因果応報の考え方にたっています。それは取引の考えにたっています。よいことをしたものがよい報いを得、悪いことをしたものは悪い報いを得る、それが人間の考える正義です。すべての悪は愛エネルギーを奪う行為ですが、人間の正義は、奪われた愛エネルギーを奪い返す戦いです。それは目に見える行為としては悪に対する攻撃であり、懲罰であり、賠償の要求です。人間の正義が勝利したとき、相手はますます愛エネルギーの欠乏に陥ります。奪った以上に奪い返されるからです。その結果、時をおいて、再びその相手は同じような悪の行為に走ります。人間は愛エネルギーの欠乏状態に耐えられないので、何としてもそれをどこからか補充しなければならないからです。こうして、人間界には愛エネルギーの奪い合いが果てしなく続きます。これが地球の上の歴史が示す人間の正義です。

これに対し、神の正義は悪を癒す正義です。愛エネルギーが欠乏しているところに愛エネルギーを与えて、欠乏を解消しようとするのが神の正義です。愛エネルギーの欠乏がある限り、それがどこへ移動しようとも、その行くところどこまでも奪い合いが続きます。それは椅子取りゲームのようなものです。椅子が基本的に足りないので、椅子を取られた人はかならず取り返さなければならないのです。愛エネルギーの欠乏は、愛エネルギーを与えることによって埋めなければ解消することはありません。これがイエスの「敵を愛しなさい」という教えの意味です。

けれどもこのことは、「愛」を「行為」と考えている限り理解できません。理解できないだけでなく、「愛している」つもりで実は愛エネルギーを奪っているということさえ起こります。愛エネルギーを与えることは、物質的あるいは肉体的な行為ではありません。ただ、行為を伴うこともあるというだけです。それはまず純粋に心の中の問題として捉えなければなりません。それはまず心の中で「ゆるす」ことから始まります。悪をとがめないことです。悪を「愛エネルギーを求める叫び」として聞くことです。

間の正義は行為の結果を見ています。こんな悪いことをしたのだから、罰を与えなければならないというのが人間の正義です。けれども神の正義は行為の原因を見ています。こんな悪いことをするのは愛エネルギーが欠乏しているからである。だから愛エネルギーを与えなければならないと考えます。「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」というのは、歎異抄にある親鸞上人の言葉です(金子大栄校注『歎異抄』岩波文庫p45)。「善人でさえ救われるのだから、悪人が救われない訳はない」というのがこの主旨ですが、私は、この言葉も神の正義を述べているのだと思います。善人というのは、愛エネルギーが欠乏していない人です。だから善人でいられるのです。仏様はそのような善人にさえさらに愛エネルギーを与えようとするのだから、愛エネルギー欠乏症にかかっている悪人に愛エネルギーを下さらないわけがない、というのがこの言葉の趣旨なのです。

愛エネルギーはちょうど熱エネルギーのような性質を持っています。熱エネルギーが物質に入ると温度が高くなります。熱エネルギーが出て行くと温度が下がります。愛エネルギーも同じです。人間の心に愛エネルギーが入ると心の温度が高くなります。愛エネルギーが出て行くと心の温度が下がります。私たちが「心のあたたかい人」とか「心の冷たい人」という表現を使うのは偶然ではありません。心のあたたかい人は悪いことはしません。自分を犠牲にしても人を助けたいと思うからです。心の冷たい人は、人を犠牲にして自分の欲求を達成しようとします。そこに悪と呼ばれる行動が生まれるのです。

愛エネルギーは熱エネルギーと同じように、温度の高いところから低いところへ流れます。心の温かい人から心の冷たい人に愛エネルギーは流れて行きます。すると心の冷たい人もすこし冷たさが和らいで、おだやかな気持ちになってきます。

熱エネルギーが伝わるのに、二つの方法があります。一つは、物体と物体が接触しているときに伝わる伝わり方で、これを接触による熱伝達といいます。これに対し、離れている物体のあいだでも熱エネルギーは伝わります。これを輻射による熱伝達といいます。熱は電波の一種である赤外線になって物体のあいだの空間を飛び越えるのです。

愛エネルギーもちょうどこれと同じような二つの方法で伝わります。人と人とが直接触れ合っているときに愛エネルギーが伝わるのは接触による熱伝達に相当します。これが行動に現れた愛です。けれども、愛エネルギーは離れている人のあいだでも伝わります。ちょうど輻射による熱伝達と同じです。このとき目に見える形では行動は何もありません。私たちはふつうこのようなやり方で愛エネルギーが伝わることを理解していません。それで離れている人のためには何もできないと思うのです。けれども、離れている人のあいだでも愛エネルギーを送ることができます。これがイエスがいった「あなたの敵のために祈りなさい」という言葉の意味なのです。愛エネルギーが伝わるチャネルとして神を利用するのです。あなたの心を愛エネルギーで満たし、それが送りたい相手の所へ流れて行くと想像してください。ただそれだけです。ただし、それを、あなたの意識の全体で行ってください。心の一部分だけでするのでなく、潜在意識もエゴもみんなひっくるめて、全身全霊で、意識の全部を一つにして、愛エネルギーが流れて行くところを想像してください。効果は、あなたの心の何パーセントがこの祈りに参加したかということだけにかかっています。距離は関係ありません。地球の裏側にいる人にでも、すぐそばにいる人と同じように愛エネルギーを送ることができます。なぜなら神の中には空間も距離もないからです。すでにこの世にいない人にでも、まだ生まれていない人にでも、同じように愛エネルギーを送ることができます。なぜなら霊的世界には時間がないからです。

私たちは、自分が直接事件に巻き込まれたときに、自分や家族に危害を加えたような人に愛エネルギーを送るということはなかなかできません。けれども、世の中の事件に対して第三者的な立場にいるときにはそれほどむつかしくはないはずです。このようなときに愛エネルギーを送る練習をしてください。

何も行動をしなくても愛エネルギーを送ることができるなら、その逆もできるはずです。実際、私たちは何もしていないときでも、愛エネルギーを奪っていることがあるのです。それは人を批判する場合です。世の中で事件があったとき、私たちはなんてひどいことをする人だろうと犯人のことを思います。怒りや憎しみを感じます。このとき私たちはその犯人から愛エネルギーを奪っているのです。犯人は世の中の冷たさを一層感じるはずです。このようにして、私たちは気がつかないところでも愛エネルギーの奪い合いをしています。そのことに気づいて、お互いに愛エネルギーを与え合う練習をし、世の中全体の愛エネルギーを高めていかなければ、私たちの社会から悪は消えていきません。

世界全体の愛エネルギーを高めていくためにはどうしたらよいのでしょうか。そのためには愛エネルギーの性質をもう一つ利用しなければなりません。愛エネルギーは心の温度の高い人から低い人に流れて行きます。このとき、愛エネルギーがもし本当の物理的エネルギーであったら、愛エネルギーを送り出した方の人の心の温度は下がっていくはずです。けれどもそうはならないところが愛エネルギーの不思議なところです。私たちが人に愛エネルギーを送るためには、相手よりも自分の方が心の温度が高くなければなりません。そのためには自分自身の心に愛エネルギーを送り込まなければならないのです。私たちが人に愛エネルギーを送ろうとすると、このことが自動的に起こります。送ろうと思う人の心に「神から」愛エネルギーがたくさん送られてきます。それは送ろうとする人の心の温度を高め、その結果として、愛エネルギーが自然に相手の方に流れて行くようになるのです。愛エネルギーを奪うときにもまったく同じことが起こります。相手から愛エネルギーを奪うためには、奪う人の方が相手より心の温度が低くならなければなりません。意識的であろうと無意識的であろうと、人から愛エネルギーを奪おうとすると、このことが自動的に起こります。奪おうとする人から愛エネルギーが「神によって」とりさられ、その人の心の温度が下がります。その結果として相手から愛エネルギーがその人の方に流れ、相手から愛エネルギーを奪う結果になるのです。

愛エネルギーを与えると、与えた人と与えられた人の両方の愛エネルギーが増え、愛エネルギーを奪うと、奪った人と奪われた人の両方の愛エネルギーが少なくなります。「人を裁くものは、その裁きで自らが裁かれるであろう。」という聖書の言葉はこのことを言っているのです(日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書7章1−2節)。このことを繰り返すと、愛エネルギーの奪い合いばかりしている社会では、全体の愛エネルギーの量がどんどん減っていきます。愛エネルギーの与え合いをしている社会では、全体の愛エネルギーの量がどんどん増えていきます。悪の問題を根本的に解決するのはこの方法しかありません。私たちが絶えず愛エネルギーの与え合いをすることです。

何も行動をしなくてもよいのです。第三者の立場でいられる場合からまず練習してください。心の温度が高くなってくれば自分が直接巻き込まれたような事件でも、以前とは違う対応が取れるようになります。最初からそこまでしなくてもかまいません。あなた自身が巻き込まれる場合より、第三者でいられる場合の方がはるかに多いはずです。そのような場合に常に愛エネルギーを事件の関係者すべてに送ってください。何か事件が起こったら、テレビでそのニュースを見ながら、そこに出てくる関係者のすべてに愛エネルギーを送ってください。被害者がかわいそうだから愛エネルギーを送るわけではありません。被害者にも加害者にも、そしてそのような事件を起こす社会全体にも愛エネルギーを送ってください。全体に愛エネルギーが不足しているからそのような事件が起こるのです。社会全体というのは、テレビを見ているあなた自身も含めて、ということです。その人たちは、心の中で事件を悲しみます。非難もします。事件の当事者に対する直接の非難や同情と同時に、そのような事件が次々に起こる現代社会全体に対する苛立ちも持っています。自分がその事件に巻き込まれなくてよかったと思っています。その心には、不安と怒りと悲しみと安堵と好奇心が微妙にミックスされて渦巻いています。けれども、そのような人々の心が、実は事件の当事者から愛エネルギーを奪い、社会全体から愛エネルギーを奪っているのです。

テレビを見ながらでも結構です。人々に、そして社会全体に、愛エネルギーを送る練習をしてください。特別の行動をしなくてもいいのです。もし特別の行動が必要な場合には自然にそれが求められるはずです。何か行動しなければ愛エネルギーを送ることができないという思考の枠から脱出することが先決です。黙って座って心の中で愛エネルギーを送るところからはじめてください。世界全体の愛エネルギーを増やす働きに参加してください。

2002年5月刊行の著書 魂のインターネット p149-157 に掲載。
本サイトには2002年8月29日掲載

☆印刷用テキスト

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