聖書の新解釈

B6 現代の偶像礼拝



あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

日本聖書協会 新共同訳聖書 出エジプト記20章3−4節


冒頭に掲げた聖書の言葉は、有名な十戒の第一と第二の戒めです。この戒めによって、偶像礼拝はキリスト教では非常に大きな罪であると考えられています。また、同じ旧約聖書を聖典とするユダヤ教やイスラム教においても、偶像礼拝は神に対する罪であると考えられています。
 
このテーマについて考えるとき、まず吟味しなければならないことは、神に対する罪という観念です。「神に対する罪」という観念は、本来あり得ない観念です。人間には神に対する罪を犯す力はありません。なぜなら、神に対する罪とは、神が拒否することをすることだからです。けれども、神が拒否するものは、そもそも存在することができません。神は「光あれ」というひとことで宇宙を創り出す力のある方なのです。神が「あってはならない」とされることは、この世にもあの世にも存在する余地はありません。人間の目にどんなに悪と見えようとも、もしそれが存在するものならば、それは神によって許されているので存在できているのです。偶像礼拝も、そのような意味では、神に対する罪ではありません。もし私たちが偶像礼拝をすることができるなら、それは神によって許されているからできるのです。
 
けれども、神によって許されていることが、いつも私たちにとって「よいこと」であるかというと、必ずしもそうではありません。それは、たとえば、登山というものが悪でも罪でもないけれども、苦しい登山や危険な登山があるのと同じです。現実に、毎年山で遭難して死ぬ人が跡を絶ちません。偶像礼拝も、それと同じくらい、あるいはもっと危険な行為なのです。神が偶像礼拝を禁止したのは、神のためではありません。人間のためなのです。それは、子供を人混みに連れて行くお母さんが、子供に「お母さんの手を離してはいけませんよ」というのと同じです。神は、人間に「私の手を離さないないようにしなさい」と言われたのです。「私以外のものについていかないようにしなさい。そうしないとあなたたちは迷子になりますよ」と言われたのです。けれども神の親切な忠告は無駄でした。人間は、何千年ものあいだ、偶像礼拝をし、現在もしつづけています。そのために、私たちの世界は破滅の寸前にまで追い込まれているのです。
 
偶像礼拝という言葉は、偶像と礼拝という二つの言葉からできています。そして一般に、偶像礼拝とは、石像や木像をつくって拝むことだと考えられています。確かに、十戒がユダヤ民族の先祖達に与えられたころ(それは今から3500年くらい前のことだと考えられています)は、そのような意味であったかも知れません。けれども、現代の私たちが偶像礼拝について考えるなら、偶像とは何か、礼拝とは何かということについて、もう少し深く掘り下げて考えてみる必要があると思います。
 
礼拝というのは、拝むことでしょうか。拝むという行為は、何に対して、どんな意味を持っているのでしょうか。もし、人間が神を拝むことを神が喜ぶと考えるなら、それは真実ではありません。また、人間が神以外のものを拝むことを神が嫌うと思うなら、それも真実ではありません。拝むということは、神にとっては何の意味もありません。およそ人間が神に対して、何かをする、あるいは何かをしない、ということは、神から見れば何の意味もないのです。なぜなら、人間は神の意識の中に存在するからです。神は人間のすべてを知っており、すべてを受け入れ、すべてを許しています。許しているからこそ、人間がそれをすることができるのです。

では、拝むことは、その本人にとってはどのような意味を持っているのでしょうか。それは、その人の心の中の状態によって異なります。もし、その人が、神も偶像も信じていなかったら、その行為は何の意味も無いでしょう。もしその人が偶像を信じていたら、拝むことによって何かが得られると思うかもしれません。けれども、偶像は何もしませんから、その行為は単に無駄なことをしただけです。偶像は信じていないけれど、神は信じているという人もいます。その人たちにとっては、偶像は自分が信じる神の象徴であり、偶像を拝むことは神を拝むことを意味しています。その人は、神が何かをしてくださると思って拝むかも知れません。けれども、神を拝むことは、神の側から見たら意味はありません。神が自分を拝む人に対して、「お前はよく丁寧に拝んだから、願いをかなえてあげよう」ということはありません。
 
つまり、偶像であろうがなかろうが、単に「拝む」ということによって何かが起こるということはないのです。では、礼拝とは何でしょうか。どこに礼拝の意味があるのでしょうか。英語で礼拝のことをサービスといいます。サービスとは、サーバント〈召使)がする仕事のことです。そして、召使の仕事とは、主人の言うことを聞いて、それを実行することです。神の言われることを聞いて、それを実行することが神に対するサービス(服従)であり、真の礼拝なのです。教会に集まって神を賛美するための一定の儀式を行なうことが礼拝ではありません。
 
「神の言葉を聞き、それに従うことが礼拝である」と言いましたが、現代の私たちは、神の言葉を聞くということができなくなっています。それどころか、「神の言葉を聞く」ということの意味さえもわからなくなっています。そのために、現代の私たちは、神以外のものに聞き従うということを長い間続けています。それが、私たちにとっての本当の偶像礼拝なのです。
 
聖書は、「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」といいます。けれども、現代人は、世界のあらゆるものの像を作り続けています。それは「唯物主義的世界像」であり、「科学的世界像」であり、「欲望中心的な人間像」です。
 
現代人が行なっている偶像礼拝は、「物質的世界観崇拝」、「科学崇拝」、「エゴ崇拝」、「理性崇拝」、「宗教崇拝」、「神学崇拝」、「教義崇拝」、「哲学崇拝」、「思想崇拝」などです。いくらでもならべることができます。これらのすべてに共通するものは何でしょうか。それが私たちにとっての本当の偶像なのです。

木や石で作った目に見える偶像などは、ものの数ではありません。そのようなものを拝んだところで、せいぜい無駄なことというに過ぎず、何の害もありません。なぜなら、そのようなものには「ついていく」ということができないからです。けれども、目に見えないほんものの偶像は、わたしたちをあらぬかたに引っ張っていきます。しかも私たちは、それに対して「ついていっている」という自覚さえも持っていないのです。私たちの本当の偶像とは、私たち自身が心の中に持つ観念のことです。人間は、神の声を聞く代わりに、自分の考えに従い、自分の心の中の情動に従い、自分の心の中の観念に従うようになりました。それが、人間が神の手を離してしまった、ということです。それは、いつごろのことだったのでしょうか。
 
けれども、このことの本当の意味を理解するには、「神の声を聞く」ということがどういうことなのかを知らなければなりません。もし人が健康な状態を体験したことがなかったら、自分が不健康であるということさえも知ることはできないでしょう。健康を回復してみて、はじめて、いかに自分が不健康であったかということがわかるのです。次回には、神の声を聞くということについてお話したいと思います。

2001.8.18 第6回エノクの会
霊性の時代の夜明け−トップ 霊性の時代(A) アセンション(E) 聖書の新解釈(B) 霊性入門講座(C) 魂のインターネット(G) 対話1 対話2
inserted by FC2 system