聖書の新解釈

B23 柔和なる人々


柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書5章5節


私は以前に「悔い改めとは心の中の観念を入れ替えることである」というお話をしました。けれども「悔い改めとは何か」ということをいくら理解しても、実際に心の中の観念を入れ替えなければ何も変わりません。そこで、これから何回かにわたって、私たちの心の中の意識を入れ替えることに焦点を当ててお話をしたいと思います。

先ずはじめに、これまでお話してきたことを整理して復習しておきたいと思います。
 
@神は完全である。したがって神に創られた人間も完全である。
私は信仰の基本はこれであると考えています。これは多分皆さんがこれまで教会で教えられたことや日常的な理解とは異なっていると思います。私たちは「人間が完全な存在である」とはとても思えないからです。けれども、もし人間が不完全なら、それを創った神も不完全であるということになります。完全な存在が創るものは完全であるほかはないのです。
 
A人間は霊である。私たちが普通人間だと思っているものは人間ではない。
「人間は霊である」ということは、人間は物質ではないということを意味しています。「神は霊である」(ヨハネによる福音書4章24節)と言われるように、人間も霊なのです。神が創った完全な人間とはこの「霊の人間」のことです。普通私たちが人間だと思っているもの、すなわち肉体は、本当は、人間ではありません。
 
B霊である本来の人間は、さまざまな生き方を具体的に表現し体験するのが仕事である。
神は何の目的もなしに人間を作ったわけではありません。霊である本来の人間は、神の意識そのものの一部であり、無限の多様性をもつ生命の具体的なあり方を、自らのありかたとして体現するのが仕事です。したがって、霊なる人間がどんな生命形態を表現しようと、それは神に対する罪ではありません。私たちはいろいろのものを見て、あれは善だ、これは悪だと判断しますが、どのような善も悪も、すべて神の許しのもとに存在しているのです。
 
C地球に住んでいる人間は、神を忘れ、自分が霊であることを忘れるという世界を、共同で創造し体験している特別な霊たちの集団である。
神によって創られた霊なる人間の使命は、さまざまな生命の形態を表現することですが、地球に今集まっている霊たちの仕事は、「神を忘れ、自分の霊なる本質を忘れる」という世界を作り出し、そのような世界の中では何が起こるかということを体現してみせることです。このため、人間は自分が物質であり、肉体であると思い込み、そこから生ずる恐怖を土台にして、その上にさまざまな人生を描いて見せるのです。
 
D霊たちは、自分の心の中に世界を創造し、その中に仮想の自分を置いてその世界を体験する。
神が作り出した世界は神の意識の中に存在します。同じように、霊なる人間が作り出す世界は、霊なる人間の意識の中に存在します。霊なる人間は、自分の心の中に想像によって世界を作り出し、その中に存在する自分を想像によって描き出すのです。

Dでのべたように、いま皆さんが見ている世界は一人ひとり自分自身が作り出した世界です。外にある世界を見ているように思えますが、実は自分自身の心の中を覗いているのです。
 
自分が作り出したといっても、皆さんの脳が幻覚をみているというのとはちがいます。もっと深い心の奥で作り出している世界であって、ふつう、私たちは自分がそのような創造にかかわっていることに気付いていません。 けれども、気付いているいないにかかわらず、一人ひとりは、自分の心のあり方に従った世界を作り出します。みんなで共通の一つの世界に住んでいるように感じられるのは、この心の奥にある意識に共通の性質があるためです。本当に世界が変るほどの悔い改めをするには、この心の奥にある深い信念に気付かなければなりません。

その深い信念の一つが「自分は物質の肉体である」という信念です。これについてはB20 二人の主人でお話しました。
 
きょうは「障害克服症候群」についてお話しをします。障害克服症候群というのは私が勝手につけた名前なので、どこにも通用しませんが、私は現代の地球人、少なくとも文明国の人はすべてこの病気にかかっていると思っています。それは「困難を克服することに価値がある」という観念に取り付かれていることです。別の言い方をすれば、生きがいを感じるためには困難の存在が必要である、ということです。「チャレンジ症候群」と言ってもよいと思います。
 
30年ほど前、私は子供を膝に抱いてテレビの前に座り「宇宙戦艦ヤマト」というアニメを見ていました。それは地球を侵略しようとする悪い宇宙人を相手に、宇宙戦艦ヤマトに乗り組んだ主人公達が戦う物語です。私はそれを見ながら「人間は、口では平和平和と言うけれど、侵略者を想定しなかったら、子供向けのアニメさえつくれないんだ」と思いました。それから注意してみていると、この「戦いのパターン」が文学から映画やテレビドラマに至るあらゆる分野に浸透していることに気付きました。
 
今年(2003年)、新しい大河ドラマ「宮本武蔵」が始まりました。ドラマを見ていればわかることですが、宮本武蔵の前には次々に新しい敵が現れます。そのような敵に打ち勝つことによって、武蔵の強さが証明されて行くわけです。数年前に人気を博したテレビの連続ドラマ「おしん」の主人公は、自分の運命を戦いぬいた女性でした。同じような、逆境と戦う主人公の物語は、数え切れないほど作られています。
 
文学やドラマの中だけでなく、私たちは実生活でもさまざまな場面で「戦い」の中に身を置いています。戦いといっても、戦争や武術のような物理的な戦いだけではありません。心理的な戦いや精神的な戦いもあります。他人との戦いだけでなく自分自身との戦いもあります。恋を成就させるための戦いもあれば、富や名声を得るための戦いもあります。ノーベル賞を取るための戦いもあります。政治、経済、科学、スポーツ、芸術のあらゆる分野で戦いが行なわれています。
 
私たちは、このようなあからさまな戦いには気付いています。けれども、私たちが気付いていない戦いもあります。それは、私たちの人生に現われるさまざまな困難です。貧困、病気、災害等によって私たちは困難な人生を歩むことがあります。私たちはそれを偶然に訪れた招かれざる客のように感じます。私たちは自分の運命と必死に戦います。けれども、それが、自分自らが生み出して自分の前に置いたチャレンジ目標であることに気付くことはありません。

私たちのエゴは「障害を克服することによって自分の強さが証明される」と思い込んでいます。エゴは、自分の存在価値(生きがい)を感じるために障害を必要としており、そのために自分の人生にわざわざ障害を作り出すのです。それは『宮本武蔵』の作者が、武蔵がいかに強いかということを証明するために、次々に敵役を登場させるのと同じです。
 
もし私たちがほんとうに平和な世界を望むなら、この「障害克服症候群」から抜け出さなければなりません。平和な世界を望むなら、大事なことは障害を克服することではなく、いかにして障害のない世界で退屈しないでいられるか、ということなのです。自分自身が障害を必要としない心をもたなければ、障害がなくなることはありません。
 
障害を必要としない心とは、すべてをゆるす心です。すべてを受け入れる心です。柔和な心です。愛に満ちあふれた心です。自分を証明しようとしない心です。それは何かを成し遂げようとする心ではなく、ただ謙虚に存在するだけの心です。
 
戦いの人生が悪いというのではありません。善悪ではなく、因果関係なのです。戦いの人生を送りたいか、平和な人生を送りたいかという選択の問題なのです。平和な人生を送るためには、何を変えなければならないかという問題なのです。もちろんこの選択は私たちの表面の意識で行なう選択ではありません。心の奥の深いレベルで行なう選択です。表面の意識でいかに平和を望んでいても、心の奥の深いところが戦いを必要としているなら、私たちは否応なく戦いの人生に引きずり込まれて行きます。
 
けれども、心の奥の選択は、表面の意識と無関係ではありません。表面の意識が持つ意思を、心の奥深くに浸透させた結果起こる選択なのです。私たちは平和を外の世界に求めます。けれども、自らの心の深奥を平和にすることができなければ、外の世界で平和が得られることはないでしょう。
 
「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」とはどういうことでしょうか。

人間の人生に成長や発展があるように、星の人生にも成長や発展があります。いま地球には転機が訪れているという人たちがいます。地球はこれまで戦いの人生のための場を提供してきました。けれども、これからは平和な人生の場を提供するように変ってゆく、というのです。もしそれが本当なら、戦いの人生を好む人たちは次第に地球から姿を消してゆきます。

けれども、それはその人たちが罰せられて滅ぼされるという意味ではありません。ただ、舞台を地球から他の星に移すだけです。すべての人は、自分が歩みたい道を歩む権利を神によって保証されています。同じように、すべての星は、どんな世界を提供したいかを選ぶ権利を持っています。チャンバラ映画を上映する映画館には、チャンバラ映画の好きな人たちが集まります。ロマンス映画ばかり上映する映画館にはロマンス映画の好きな人たちが集まります。それと同じように、星はその上に住む人々を選び、また人間は自分が住む星を選びます。
 
地球がどのようになろうと、あなたが体験する世界はあなたの心が決めます。あなたは地球に残るか、よその星に行くかのどちらかです。あなたが戦いを必要とする心をもっていれば、戦いの人生を歩むことができる世界に行き、平和な心をもっていれば平和な人生を歩むことのできる世界に行きます。どちらを選ぶかはあなたが決めることです。そして、求める世界を自分の心の中に確立してください。それがあなたが体験する外の世界になるのです。

2003.1.18 第23回エノクの会
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