聖書の新解釈

B4 光をさえぎるもの



ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 イエスは言われた。 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書22章39節


前回お話ししたように、物質世界は神がつくった完璧な体験劇場です。私たちはこの劇場で、生と死、愛と憎しみ、怒りとゆるし、平安と恐怖など、神の創造した完全な世界では決して体験することのできない「二元性」あるいは「不完全性」を体験するのです。

体験劇場という見方は一つのモデルに過ぎませんが、このモデルには重要なポイントが三つあります。
 
一つは、私たちがこの劇場で体験する世界が実在ではないということです。実在、すなわち真実に存在するものは、神が創ったものだけです。そして神が創ったものに不完全はありません。そこで私たちは劇場の中の架空のドラマによって「不完全」を体験するのです。それは、ちょうど、人間の作家や映画監督が、現実には起こり得ないような状況を作品の中に描いて、さまざまな疑似体験をつくり出すのに似ています。
 
第二のポイントは、前回、個室型体験劇場のたとえでお話したように、すべての人がそれぞれの心の中にスクリーンを持っていることです。私たちはみんな同じ世界に住んでいるように思っていますが、実は一人一人が体験するのは自分の心の中のスクリーンに描かれた世界だけです。人間の心の中のスクリーンという仕掛けをつくったのは神ですが、その中で演じられるドラマは神が直接つくっているわけではありません。人間自身が自分でつくり出しているのです。自分のスクリーンに映し出される世界をどんなものにするかは、一人一人の責任に任されています。私が体験する世界は100パーセント私に責任があります。これは、物質世界という外界が客観的に存在しているという考えに慣れている私たちにはとても信じがたいことですが、真実です。
 
第三のポイントは、この劇場から退出する出口がどこにあるかを知ることです。劇場は私たちの心であり、その出口はそれぞれの心の奥にあります。私たち人間は純粋の心であり、それは巨大な心である神の身体の中にある内臓のようなものです。私たちの心から出ると、そこは神の意識の内部です。心の出口というのは、出口であるだけでなく、神の光の差し込む窓でもあり、私たちがどこに神を求めるべきであるかを示しています。
 
私たちはこの劇場のさまざまなドラマの中で、善人や悪人になり、喜びや悲しみや苦しみや悩みを体験します。体験劇場でどのようなことを体験しようとも、それはすべて神のゆるしのもとにあります。なぜなら、体験劇場というのは、あらゆることを体験するための劇場だからです。私たちは、この劇場のドラマの中でいつも「よい子」でいる必要はありません。体験劇場で体験することは、すべてが(神の実在世界から見れば)架空のドラマです。もし苦しむのがいやなら苦しまないドラマをつくればいいし、体験劇場から退出することも自由です。けれども、苦しまないドラマをつくるためには、ドラマがどのようにしてつくられるかを理解しなければならないし、劇場から退出するためには、どうしたら退出できるかを学ばなければなりません。

私たちがいま霊性に関心を持つのは、私たちがこの体験劇場からそろそろ退出しようと思い始めているか、苦しまないドラマをつくる方法を学ぼうとしているからです。そして、それを学ぶこと自体が、私たちがこの劇場で体験できる最高のドラマなのです。
 
体験劇場から退出するためには、あるいはドラマに対する支配権を取戻すためには、心の奥にある神の国への扉を開け、神の光を招き入れなければなりません。神の光が私たちの心に入ってくるのを邪魔しているのは、体験劇場のドラマを真実だと思い込むことによって潜在意識の中に蓄積された、知識や観念や価値体系や、さまざまな出来事や感情の記憶です。霊性回復のためには、それらを取り除くための適切な方法を知ることが必要です。
 
まず、取り除くプロセスに善悪の判断を入り込ませないことが重要です。これらのものを取り除くのは、それらのものが「悪いもの」だからではありません。それらはこの体験劇場でのさまざまな体験の成果であり、また次のドラマを体験するために必要な材料だったのです。ただ神の国へ帰ろうとするいまとなっては、もはや必要がなくなったというに過ぎません。それは、新しい家に引越しをするとき、不要になった古い家財道具を捨てるようなものです。
 
キリスト教では、人間は神にそむいた罪人であると教えます。けれども、人間が神にそむくことができるという考えほど思い上がった考えはありません。人間には神がゆるさないことをする力はありません。人間が行なうどんな善も、どんな悪も、すべては神のゆるしのもとに起こっているのです。自分の中にあるすべてを神にゆるされているとして受け入れることが重要です。受け入れないものを捨てることはできません。なぜなら、もし何かを悪だと考えていると、人間は自分の中に悪があることを認めたくないので、無意識の中にそれを隠してしまいます。したがって、それが自分の中にあるのに気づくことができなくなります。自分が気づかないものを捨てることはできないのです。

 光をさえぎるものを捨てるプロセスは、一般的に表現すれば、
 ・それが何であるかを認識すること
 ・それをよく味わうこと
 ・それに感謝すること
 ・もはや自分には不用になったと宣言し、神の元へていねいに送り返すこと
です。必要だと思うなら心理学的なカウンセリングを受けるのも結構です。けれども、不要になったものを捨てる決心を絶えず意識に保ちつづけるなら、あるとき突然自分の心の中に「こんなものがあったのか」と気づくことが起こり、それを解放する道へと導かれます。
 
イエスは「自分を愛するように人を愛しなさい」といわれました。けれども、人間は自分を愛しているように見えて、本当は愛していないことが多いのです。それどころか自分自身を憎んでいるというのが実態です。自分を憎むのは、体験劇場で体験している「不完全な自分」を本当の自分であると思うからです。心の奥の扉の前に積み上げた知識や論理や価値体系や感情の記憶を自分だと思うからです。

「自分を愛する」というと、それはナルシシズムやエゴイズムであると思って不安になる人もあるかもしれません。けれども、ナルシシズムは自分を愛しているのではありません。自分の本当の姿を見るのが怖いので、目をつぶっているに過ぎません。エゴイズムも自分を愛しているのではありません。それは、自分が本当は何であるかを知らないので、怖れのために、架空の敵に向かって自分を守ろうとしているだけです。

自分を愛するというのは、自分が神によってつくられ、神によって「よし」と認められた高貴で完全な存在であることを認めることです。すべてが神にゆるされていることを認めることによって、自分の中にあるもののすべてを見ることができるようになり、それを捨てることができるようになるのです。
2001.6.23 第4回エノクの会
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