聖書の新解釈

B16 死者の復活


《きょうの聖書は有名な「放蕩息子のたとえ」ですが、たいへん長いので、以下にあらすじを述べます。》

ある人に息子が二人いました。ある日、弟のほうが、父親に「私がいただくことになっている財産の分け前をください」と言いました。そこで父親は、二人に財産を分けてやりました。弟はすぐにそれを全部換金し、それを持って旅に出て行きました。そして、そこで放蕩の限りを尽くして財産を使い果たし、無一文になってしまいました。
弟息子は飢え死にしそうになって初めてわれに帰り、もうお父さんの息子と呼ばれる資格はないが、雇い人にでもしてもらおうと考えて帰ってきます。父親は、弟息子が帰ってきたのを見て喜び、雇い人にするどころか、宴会を開いて歓迎します。これを見ていた兄息子のほうは面白くありません。そして、父親にこう文句を言います。「私は何年もお父さんにつかえていますが、あなたは私が友達と宴会するのに、子ヤギの一匹もくれませんでした。それなのに、弟が娼婦と遊び暮らして財産を使い果たして帰ってくると、肥えた牛を振舞っておやりになる。」
 そのときに父親の言った言葉が、次の言葉です。 
すると父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

日本聖書協会 新共同訳聖書 ルカによる福音書15章11−32節


前回は、悔い改めとは、心の中身を入れ替えることだという話をしました。けれども、悔い改めを人間のほうからばかり見ていると、どうしてもそこに善悪の観念がつきまといます。悪いから改めるのが悔い改めだと思うからです。 けれども私は皆さんに、善悪をはなれて、もっとさめた目で、悔い改めをも人間全体をも見てほしいと思っています。そこできょうは、悔い改めを霊的世界のほうから見たらどのように見えるか、という話をしたいと思います。
 
イエスは人間を放蕩息子にたとえて話をされました。放蕩息子が帰ってくることは、死んだものが生き返るようなものだと言われました。この物語には、二つの異なる視線があることに注意してください。一つは父親の視線であり、もう一つは兄の視線です。父親は、最初から最後まで、弟を責めることがありません。弟が「財産を分けてください」というと、何も言わずに分けてやります。息子が帰ってくると、遠くから見つけて駆けつけて抱いてやります。父親は、弟が金を持って出て、それで何をしてきたかというようなことは、まったく問題にしていないのです。これに対し、兄は冷ややかな目で見つめています。「あいつは娼婦のもとで金を使い果たした」と批判する目で弟を見ています。これは人間の目、善悪を言い立てる目です。
 
聖書では弟はお父さんの家に帰ってきたことになっていますが、実はこの弟はまだ家に帰っていません。なぜなら、弟とは私たち人間のことだからです。

私は、この物語の弟が、父親の財産を持って家を出たあと、どこへ行って何をしているかということを少し違うたとえでお話したいと思います。イエスの時代には、遊ぶところといったら娼婦の家くらいしかなかったので、聖書のような話になっているのですが、今ではもっと適切なたとえをつくることができます。弟が行ったのは、霊的世界の中のテーマパークなのです。それは、「神のいない世界」を体験できるということをうたい文句にした体験劇場です。
 
人間が本来霊的存在であるということを思い出してください。本来の人間は、無限の生命と無限の智慧と無限の愛を持つ完全な存在です。常に神と一体であることを自覚している存在です。普通の状態では、「神のいない状態」を体験することはできません。そこで、神がいないとはどのような状態かということを体験するために、霊的世界の中に特別の体験劇場がつくられました。それはちょうど人間がディズニーランドやユニバーサル・スタジオのようなテーマパークをつくって、現実には存在しないお伽の国や西部劇の世界を体験しに行くのと同じです。
 
この体験劇場にはたくさんの個室があり、遊びに行った存在たちは、一人ずつ個室に入って、そこで特殊な立体映画を見るのです。それが地球の世界です。各個室は一つずつ地球上の一つの肉体に対応していて、上映される映画はその肉体の感覚を通して見た地球世界の姿が映写されるので、それを見ているうちに、観客は自分がその肉体であると思い込むようになります。そして、お互いに、肉体を通して愛したり、戦ったりして、神のいない世界での生活を体験するのです。(詳しくはB3 内面の世界A5 地球という世界などをご覧ください)
 
ところが、このようにして体験映画の中で、地球という世界が本当の現実だと信じ込んでしまった霊的存在たちは、神を忘れ自分の本質を忘れ、目を覚まさなければならないということを忘れ、目を覚ますとはどういうことかも分からなくなってしまいます。そこで今度は、この幻想にとらわれてしまった存在たちを、幻想から救い出す必要があります。その必要性はこの体験劇場が計画されたはじめから分かっていました。何しろ自分の本質を完全に忘れさせるのが体験劇場の役目なのですから、その状態から救い出すこともはじめから計画のうちに入っているのです。
 
このために、特別な力を持った霊的存在が自分の分身を映画の中に送り込み、そして映画の世界の中で、すべての人に「これは仮想の世界であって、あなた達はそこに遊びに来たのであり、そこから脱出することができるのだよ」と教えるのです。世界のあちこちに霊的指導者が現れて、物質世界へのとらわれから解放される道を教えているのは、このような指導者たちなのです。
 
カルヴァンの予定説というのがあります。「人間が罪を犯すのもそこから救われるのも、すべて神のご計画である」という説ですが、これは上に述べたような意味で真実をついています。神を忘れるということを「罪」だと呼ぶなら、地球世界を体験しに来る存在たちは、すべて罪人になることが定められています。そして、この仮想世界のすべての存在たちに対して、そこから救われる道が用意されているということも真実です。
 
ただ、カルヴァンの説は誤解されました。一人一人の人間について、彼が罪を犯すのも、それをいつ救い出すかも、すべて神が勝手に決めることだと考えられたようです。いろいろな人の人生を見ていると、中には救われないままに死んでしまう人もあるように見えるので、そのように考える人たちが出てきたのだと思います。このため、カルヴァンの説は人間の自由意志や責任とのかかわりで、矛盾を含むと思われました。
 
けれども、霊的存在は生まれることも死ぬこともありません。死ぬのは肉体だけです。それは霊的存在が表現したいと思った一つの人生のために選んだ仮想の姿であって、霊的存在自身はそのような人生を何度も繰り返しながら、その中で、「神のいない世界」での人間のさまざまな姿を表現し、体験しつづけるのです。いつ体験劇場から出たいと思うかは一人一人に任されています。霊的存在たちはいつでも自由意志を持っています。なぜなら、自由意志というのは霊的存在の本質だからです。
 
私たちは、いまこの体験劇場の中で、地球世界を体験する幻想映画を見ています。そして、その幻想の中で、自分が何であったかを少しずつ思い出しはじめています。けれども、幻想だと気づいたら自動的に目が覚めるわけではありません。目覚めるためには、幻想映画を見ている間に心の中に蓄積された物質世界の観念を放棄し、本来の霊的存在であったときの心の状態を取戻さなければなりません。それが、イエスが人間に教えようとしたことなのです。最高の悔い改めとは、「自分は物質である」という観念を捨て、霊的存在であるときの意識を取戻すことです。
 
人間が目を覚ましたとき、すなわち霊的存在の意識を取戻したとき、霊的世界では何が起こるでしょうか。それが、放蕩息子のたとえが教えていることです。大勢の霊的存在たちが「死んでいたものが生き返り、なくなっていたのがみつかったのだ」といって祝宴を開いて迎えてくれます。体験劇場に入り込んだまま戻ってこない私たちを、彼らはずっと待ち続けているのです。死んでいる者とは私たちのことです。私たちは深い眠りに落ちたまま目を覚まさない眠り姫のようなものです。それが目を覚ませば、大きな喜びが天にあるのです。
 
体験劇場の中で、地球という仮想世界を体験すること自体が悪いのではありません。けれども私たちは、いつかはこの幻想からさめ、体験劇場から出て、父なる神の家に帰っていかなければなりません。そして、この幻想から覚めて劇場から脱出するということ自体が、実はこの体験劇場で味わうことができる最高の喜びなのです。

2002.6.15 第16回エノクの会
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