聖書の新解釈

B35 神はカーナビ


わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書28章20節


「神はカーナビのようなものだ」と言っても、何のことだかお分かりにならないでしょうね。中には、そんなことを言っていいのだろうかと思われる方も、あるかも知れません。

けれども、事実は事実です。わたしたちはみんな「人生」という名の車を運転してドライブをしています。神はそのドライブを案内してくれるカーナビのようなものです。

神とカーナビがどれほど似ているかということをお話ししましょう。
 
(1) カーナビは、最初に目的地を入れてやると、現在の場所から目的地に行くまでの経路を自動的に設定してくれます。
私たちも、この世に生まれてくるときに、この人生の目的を定め、経路を設定して生まれてきます。その経路は神に登録されています。 ただし、私達は普通の意識(顕在意識)では、そのことを覚えていません。そこで、私たちは、まったくの白紙の状態で、自分で道を決めて生きているように思っているのです。
 
(2) カーナビに経路が設定されていても、私たちはそれを無視して運転することができます。カーナビには、いかなる強制力もありません。
神も、私たちに、あらかじめ設定された経路をたどるように強制することはありません。私たちはいつでも、その経路を外れて違う道に入って行く自由をもっています。私たちは人生の道筋を自分で選択し、決定します。そのときに、私たちは、善悪や損得や好き嫌いや不安や怖れにもとづいて勝手に判断する結果、次第に最初に設定された経路から外れて行き、ついには迷路に入り込んでしまうのです。
 
(3) 私たちがどんなに変なところに入り込んだとしても、カーナビは目的地に行く道を見失うことはありません。そして、絶えず、こちらに行きなさい、と叫んで、道を教えてくれます。
神も、私たちがどんな状況にあろうと、私たちが自分の人生に設定した目的と、それを達成するための道を見失うことはありません。そして、神は絶えず私たちに「正しい道」に戻る方向を教えてくれています。けれどもそれは、心の奥のほうに語りかける、静かでかすかな声です。もしそうでなくて、神が大きな声で私たちに怒鳴りつけるとしたら、神は私たちの人生を支配することになります。私たちは、自分の自由意志を失ってしまうでしょう。私たちが自由な人間であるためには、神の声は小さな声でなければならないのです。私たちがいつでもそれを無視できるものでなければならないのです。そして、私たちは実際にそれを無視し続けています。 
 
(4) 私たちがどんなにカーナビのいうことを無視しつづけたとしても、カーナビは決して怒りません。
神も同じです。私たちが神のメッセージをどれほど無視しつづけようと、神が怒ることはありません。神はただひたすら「今の状態」から、本来の道に戻るための方向だけを指し示すのです。それを採用するかどうかは、私たちの自由です。
神が人間に語りかけるのは、すべて人間のためなのです。
小さな子供が誤って火をつかみそうになったとき、親はあわてて「それに触ってはいけません」と言います。けれども、それは火に触ることが悪いことだからではありません。火に触ればやけどをすることを親は知っています。だから、親は「それはあなたにとって苦痛を生じることですよ」と言うのです。
神も同じです。神が人間に「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」と戒律をあたえた、といろいろな宗教が語ります。けれども、それらの戒律はすべて、それをするのは悪いことだといっているのではありません。「それをすればあなたは苦しみますよ」と言っているのです。 「甘いものを食べ過ぎたら、糖尿病になって、苦しみますよ」という忠告と同じなのです。
 
(5) カーナビは、決して過去の間違いをとがめません。
カーナビは、絶えず「今いる場所」から目的地に行く道を示します。過去にさかのぼって、「あなたがあそこで道を間違ったのがいけないのだ」などということは言いません。
神も同じです。神は、絶えず、私たちが「今いる場所」から本来の道に戻る方法を教えます。それが、どんなに苦しい道であったとしても、それは私たちの「過去の間違い」に対する罰ではありません。ただ、「今いる場所」から本来の道に戻るためには、どうしてもそのような苦しい道を通らなければならない、というだけのことです。
たとえば、あなたが泥沼に入り込んで身動き取れなくなっているとしましょう。カーナビである神はあなたにどっちのほうに向かって歩きなさい、ということを教えてくれます。けれども、もしあなたが泥沼の真ん中にいるなら、どっちを向いても、とにかく泥沼をある程度歩かなければ岸に上がることはできないのです。
神は、過去の私たちを見てはいません。神はただ、いま現在の私たちを見て、そこからどうすれば本来の道に戻れるかを教えてくれるのです。どのような理由で、あるいは、どのような経緯で、私たちが今の状態になったかというようなことは、神にとっては何の意味もないのです。神がすべてを許しておられるというのはこのことです。
 
(6) カーナビは決して自分では運転しません。
カーナビは決して自分では運転しません。運転するのはその車に乗っている私たちです。カーナビは道案内はします。けれども、運転するのは私たちです。
神も同じです。神は道案内はします。けれども、私たちの「人生」という車を運転するのは、神ではありません。それは私たち自身です。神がどんなに道案内をしてくれようと、私たちが自分で運転するのでなかったら、私たちはどこにも行くことはできません。
 
私たちは、いわば、このようにカーナビのついた車に乗って人生という名のドライブを楽しんでいるのです。けれども、たいていの人がカーナビがついているということさえも忘れてしまっているために、個人においても、世界全体においても、さまざまな困難に遭遇することになるのです。

人間が霊性を取り戻すということは、いわば、このカーナビの使い方を思い出すということなのです。 

2004年1月8日 エノクの会最終回
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