聖書の新解釈

B26 分裂と統合


そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスが癒されると、ものが言え、目が見えるようになった。群集は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。私がベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書12章22‐28節


イラク戦争という不幸な出来事を見て、このホームページにも何人かの方から質問がきました。「戦争をやめさせたいけれど、どうすることもできない、どうしたらいいでしょうか」。きょうは、この問題についてお話ししたいと思います。
 
エゴはひとより少しでも偉くありたいと思っていますが、どうしても勝ち味がないというときには、今度は自分を殉教者に仕立て上げ、「自分はこんなに立派なのに、世界が悪いから仕方がない」と思って満足します。私は、これを殉教者症候群といいます。別の言い方をすれば、被害者意識ということになります。
 
自分は正しい、自分は間違っていない、あの人が間違ったことをする、世の中が悪い、政治が悪い、経済が悪い、と言って、あからさまに、あるいは心の中でひそかに、非難攻撃を続けることによって満足する、これが殉教者症候群です。非難はするけれども、自分がそれに対して何もできない、ということも知っています。正しい自分に力がなくて、間違っている人たちに力があるのは不合理だという思いを持っています。けれども、無力な者としては黙って耐えるほかはない、これが殉教者症候群の考え方です。
 
殉教者症候群のひとが力を持てば、聖戦症候群になります。イラク戦争がまさにその姿を示しています。どちらも聖戦という旗印を掲げて戦います。そして、負けたほうは殉教者になります。勝った方は正義の騎士になります。けれども、実は勝ったほうも負けたほうも、それを見ている私たちも、自分で世界を演出し、自分でその成果を刈り取っていることには気付いていません。そういう意味では、勝ったたほうも負けたほうも見物人も、みな同じなのです。

イエスが悪霊に取り付かれた人をいやされると、群集は驚いて、この人はダビデの子(救世主)ではないだろうかと囁きあいました。聖書の中で悪霊に取り付かれた人と呼ばれているのは、今日で言えば、多重人格症と呼ばれる病気の人たちに相当するのではないかと思います。(注1)
 
50年ほど前に、「イブの三つの顔」という物語が出版されました。これは心理学者が書いた小説風の実話で映画にもなりましたが、二つの人格が交互に現われる女性の物語です。物語の中では、二つの人格は第三の人格に統合され、めでたく問題が解決したことになっています。けれどもこの物語は、実際の出来事を簡略化し、一種の典型として描いていると思われます。

このイブのモデルになった女性が、自分で「私はイブ」という手記を出しています(注2)。それによると、実際の出来事はもっともっと複雑だったようです。そのほかにも、最近は、多重人格症をテーマにした本がたくさん出ていますが、それによると、一人の人格が数百人の人格に分裂することさえあるようです。
 
私たち、多重人格症でないふつうの人間も、心の中にたくさんの欲望や願望や感情や意志を持っています。これらの中には、互いに矛盾したり、反対しあったりするものもあります。ふつう、このような心の内面における分裂抗争は、直接外には現れません。それで、私たちは普通の人間でいられるのですが、心の内面を見るなら、普通の人と多重人格症の人のあいだに、それほど大きな違いはないのです。イエスは、「内輪で分かれ争う国は立ち行かない」といわれましたが、これは私たちの心が内輪で分裂し争っていることを指摘しているのです。
 
一つの例をお話します。それは私自身のことです。太平洋戦争が終わったとき、私は小学校の5年生でした。それからの数年間、ほかの人たちがそうであったように、私の一家も大変な困難な生活を強いられていました。そのような状況の中で、私の心には、戦後の混乱した社会の中で家族のために一生懸命働いていた母を助けたいという思いと、子供らしく遊びたいという二つの相反する欲求が存在していました。ところが、自分ではそのことにまったく気付かなかったのです。そのために、子供らしく遊びたいという欲求を窒息させてしまい、その結果、無意識の奥底に何十年にもわたって激しい怒りを持ち続けることになりました。そして、その隠れた怒りは、私がそれに気づいて解消するまで、私の性格に目に見えない影響を与え続けていたのです。
 
おそらく、このような葛藤は、誰でも持っていると思います。自分でしたいことと、それをしてはならないという自分の価値判断の葛藤。あれもしたい、これもしたいという多面的な欲望。喧嘩はしたくないけど、筋は通したい。責任を投げ出したいけど、プライドが赦さない、など―――私たちの心の中にはさまざまな葛藤があります。
 
私たちの心の中にある思いは、遅かれ早かれ外の世界に現実化して現われます。もし、心の中に矛盾した欲求を持っていれば、矛盾した世界が現われます。平和でいたいのに、戦争や災害ばかり発生する世界。豊かに暮らしたいのに、いつもお金に困っている生活。仲良くしたいのに、いつも喧嘩ばかりしている夫婦関係。したいことはすこしも実現できず、いつも何かの障害にぶつかる人生。これらはすべて、内輪で争っている私たちの心が外側で現実化しているのです。けれども、私たちはそのことに気付いていません。それは私たちが、外の世界は自分の心とは無関係に、独立に、客観的に存在しているものだと思い込んでいるからです。そして私たちは、世の中が悪いといって、怒ったり嘆いたりすることになります。
 
「戦争をやめさせたいけれど、どうしたらいいでしょうか」といわれますが、「戦争をしているのは他人だ」と思っている限り、どうすることもできません。なぜなら、「他人」というのは、あなた自身が「これは自分ではない」と定義したあなたの心の一部分なのです。自分ではないものをコントロールすることはできません。
 
けれどもほんとうは、あなたが見ている外の世界は、あなたの心の影絵なのです。戦争をしているのは他人ではなく、あなたの心の中の一部です。あなたの心の一部が、他の一部と戦っているのです。あなたが無意識の中に押し込めてしまったさまざまなの想念や情念。ものごとを正しいことと間違っていることに分類する幻想。自分と他人を比較競争させる幻想。心の内の分裂した欲望。理性と感情の葛藤。肉体と精神の葛藤。希望と不安の葛藤。愛と憎しみの葛藤。あなたの心の中のそのような分裂がなくならない限り、あなたが見ている世界の中の争いもなくなりません。
 
信仰とは、分かれ争っているあなたの心をひとつに統合することです。けれども、それはひとつの部分が他の部分を追い出すのではありません。あなたの心のすべての部分を、神の聖なる愛とゆるしの力によって、ひとつに統合するのです。自分の心の中に、どのような分裂があるかに気付いてください。それから、神に、自分自身を赦し統合する力を求めてください。自分の心のすべての部分に愛とゆるしのエネルギーを注いでください。

自分の心の中に、あなたが「悪」と考える醜いものがあるのに気づいてください。私たちは、自分が「悪」と考えているものが、自分の中に存在することを拒否します。そのようなものを見つけると、まったく無意識のうちに抑圧し、ふたをして、隠してしまいます。それで、私たちはそのようなものが自分の心にあることに気づかないのです。けれども、気づかないから存在しないということにはなりません。あなたがその悪をゆるすことができない限り、あなたはその隠された部分をどうすることもできません。「ゆるす」ことが重要なのは、そのためです。「ゆるす」ことができたとき、初めて、私たちは自分の心の中に同じものがあることに気づくことができるようになります。そして、それを暖かく抱きしめ、自分自身の中に取り入れます。

このようにして私たちは自分の心を統合していきます。心が一つに統合され、心の中の分裂抗争がなくなったとき―――それが、あなたが神の国にあるということであり、そのときはじめて、あなたの外側の世界にもほんとうの平和が現われるのです。

注1: 多重人格症という言い方は、最近別の呼称に変えられています。
注2: 『私はイブ  ある多重人格者の自伝』 
     ハヤカワ文庫MF198 クリス・コスナー・サイズモア他著 田中一江訳 ハヤカワ書房

2003.4.19 第26回エノクの会
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