聖書の新解釈

B32 神のこどもたち


御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世が私たちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし御子が現われるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

日本聖書協会 新共同訳聖書 ヨハネの手紙T 3章1−3節 


人間はみんな神の子です。神のこどもたちです。英語の聖書には children of Godと書かれています。チルドレンといわれると、何かかわいい幼稚園の子どもたちを思い浮かべませんか。この感じを憶えてください。
 
この記事を書いたヨハネは、イエスを信じる自分たちだけが神の子であると考えていたかも知れません。けれどもほんとうは、私たちはみんな神の子なのです。よい人ばかりが神の子なのではありません。極悪の犯罪人も、病気の人も、身体に障害を抱えた人も、みんな神の子なのです。イエスを信じる人も信じない人も、みんな神の子なのです。ただ、そのことを知らない人や知っていても信じない人は、神の子である自分を体験することができないのです。
 
ルカによる福音書15章に有名な「放蕩息子のたとえ」があります。お金持ちのお父さんから財産を分けてもらった息子が、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしてしまい、豚の餌を食べたいと思うほどに困窮したあげく、やがてお父さんのことを思い出して家に帰っていく、という話です。これに似た話が、仏教にも「長者窮子(ちょうじゃぐうし)のたとえ」として伝えられています。

この息子が、お金をもって遊び暮らしているときも、お金がなくなって物乞いをして歩くようになったときも、この息子がお金持ちのお父さんの息子であるという事実には変わりありません。けれども、この息子が物乞いをして暮らしていたとき、「お金持ちの息子である」ということは、この息子にとって何の役にも立ちませんでした。息子が「自分はお金持ちのお父さんの子なんだ。お父さんのところに帰れば、お金なんていくらでもあるんだ」ということを思い出し、「お父さんのところに帰ろう」と決心したときに、はじめてこの事実が役に立つようになったのです。
 
私たち人間も同じです。人間が神の子であるという事実は、人間がどのような姿になっていようと変わりません。けれども、私たちが「自分は神の子である」ということを思い出し、「神のもとに帰る」まで、そのことは何の役にも立たないのです。
 
先日「泥んこ遊びをしているこどもたち」というたとえをお話しました。私たちは泥まみれになって泥んこ遊びをしているこどもたちのようなものです。あまりに泥にまみれてしまったために、私たちは、自分もひとも、芯まで泥でできた泥人形だと思い込むようになってしまいました。けれども、泥んこ遊びをするこどもたちが、どんなに汚れても芯まで泥人形になってしまうわけではないように、どんなに泥まみれになっていようとも、神の子は神の子なのです。
 
ヨハネが「私たちは今既に神の子である」といっているのは、とても重要な意味を持っています。自分が本当の泥人形だと思うこどもは泥を洗い落とそうとは思わないでしょう。「自分は本当は泥人形ではなくて人間なんだ」と思う子供だけが泥を洗い落とそうという気持ちを持つのです。それと同じように、自分を神の子と信じない人は、神の子の姿を現したいと思いつくことはないでしょう。「自分は本当は神の子なのだ」ということを信じることのできる人だけが、「自分が神の子の姿を現したら、どんな姿になるのだろう」と考えることができるのです。
 
では、神の子の具体的姿はどんなものなのでしょうか。
聖書にはたいへん微妙な言い方が使われています。「わたしたちは今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません」とヨハネは書いています。ヨハネは私たちの今のありのままの姿が神の子の姿であるとは言っていません。「神の子の具体的な姿はわからない」といっているのです。
 
ヨハネはそれを分からないと書きましたが、続いて「しかし御子が現われるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」と書いています。
 
この文章は、少なくとも3通りに解釈ができると思います。一つは「神の子とはイエスのような人」という意味です。けれども、もしそうであれば、ヨハネがこの手紙を書いたのはイエスが死んだあとのことですから、神の子がどういうものであるかは既に示されている、と書くはずです。
 
もう一つの解釈は「御子が現われるとき」というのを、いわゆる「終わりの時」「終末」と考えるものです。終わりの時に「神の子が雲に乗って現われる」と言われています。けれども、もしそうなら、私たちはそれまで待ちつづけなければなりません。「終わりの時」についてはいろいろの解釈がありますが、一般にかなり遠い未来だと考えられています。それまで私たちは「自分が神の子である」ということがどういうことであるか、わからないままでいなければならないのでしょうか。

ヨハネは「そのとき御子をありのままに見るからです」と書いていますが、終わりの時に御子が雲に乗って現われたとしても、それが遠いエルサレムかどこかであったとしたら、私たち日本人は御子と顔を合せて、御子の姿をありのままに見るというわけにはいかないでしょう。
 
けれども、実はそうではありません。「御子があらわれるとき」というのは、「私たちの内面において御子との交わりが成立するとき」ということなのです。御子は、私たちの心の内面に現れるのです。世界中どこにいても、誰でも御子と顔を突き合わせて一対一で会うことができるのです。それを、イエスと言っても、キリストと言っても、聖霊と言っても、神と言ってもかまいません。私たちの内面において「聖なる存在」との交わりが起るとき、私たちは「神の子の具体的な姿」を知り、それを地上に現す者となるのです。
 
では、内面において「聖なる存在」との交わりを持てるようになるには、どうしたらよいのでしょうか。
ヨハネは「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」と書きました。この言葉には二つの意味があります。

一つは、心の中で御子に会いたいと思う人は、「自分の心を清めなさい」ということです。英語の聖書では「清い」というところにピュアという言葉が使われています。ピュアとは純粋という意味です。混じり物がなく、透明な心、それがピュアな心です。混じり物とは、物質世界に生きていることによって発生するさまざまな想念や情念のことです。唯物主義のような固定的観念、物欲、名誉欲、権勢欲などの欲望、不安、恐れ、怒り、憎しみなどのさまざまな情念、それが混じり物です。そういうものを無くして、人間は、ピュアな心にならなければ神に会うことはできないのです。

もう一つの意味は、この望み自体が私たちの心を清めてくれるという意味です。もし私たちが、心の内で御子に出会うことを何よりも重要なことだと考えるようになったら、自然にそれ以外のことの重要性が下がっていきます。それにより、心の中に雑念の生じることが少なくなるのです。
 
私たちの心は、さまざまな問題に引き裂かれて分裂し、心のあらゆる部分が勝手に動きまわっているので、心を一つに統一する必要がある、と以前お話しました(B26分裂と統合)。心を一つに統一するには、自分の心の中で最も重要な位置を占めている思いは何か、ということに気づいてください。「心の内面で聖なる存在に会う」ということを「第一の願い」として、絶えず持ち続けてください。
 
心の中にはたくさんの部分があり、一つ一つ、それぞれ独自の働きや役割を持っています。心を統一するためにしなければならないことは、これらのすべての部分に共通の願いを持たせることです。鉄の分子はみんな小さな磁石の性質を持っていますが、ふだんはそれがばらばらの方向を向いているために全体としては磁石の性質が現われません。けれども、そばに別の磁石を持ってくると、その影響を受けて鉄の分子磁石の方向がいっせいに同じ方向を向くようになります。それで全体が磁石の性質を帯びるようになるのです。
 
私たちの心も同じです。心の中で御子に会いたいという望みを実現させるためには、心の中のすべての部分に「御子に会いたい」という望みを浸透させなければなりません。それをするのは、あなたの強烈な意志以外にはありません。この世ですることはたくさんありますが、何をしていても、「御子に会いたい」という意志を持ち続けていることは可能です。それがあなたの心に方向付けを与える強力な磁石の働きをするのです。そして、あなたの心のすべての部分に「御子に会いたい」という願いが浸透したとき、あなたは実際に奇跡を体験することになるでしょう。

2003.10.18 第32回エノクの会
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