霊性入門講座

C27 自分を受け入れる


前回、「感情によるつながり」によって私たちに結び付いているさまざまな想念を解放することについてお話しました。では、私たちが最も強く結び付けられている想念は何でしょうか―――。
 
それは「自分」という想念です。「自分」というのは、私たちの心の中にあるあらゆる想念の集まりです。「想念」と言っていますが、それは広い意味で、心の中にある一切のものを指していると考えてください。それは、思考、感情、記憶、連想、欲望、願望・・・などあらゆるものを含んでいます。意識的なものもあれば、無意識的なものもあります。そのような、私たちの心の中にあるあらゆるものの集積が、私たちの「自分」なのです。
 
ところが、私たちはときどき「自分」を受け入れることができなくなります。私たちはみんな、自分が大切だと思っており、自分中心にものごとを考えます。それにもかかわらず、本当に自分を受け入れることができている人はそう多くはありません。たいていの人は、多かれ少なかれ、、自分自身に不満を持ち、自分を責める心を持っています。それは、自分を受け入れていないしるしです。
 
けれども、霊性を回復するためには、完全に「自分を受け入れる」ことが重要なのです。今回は、自分を受け入れるということについてお話をしましょう。
 
このごろ「自分をほめる」という言葉がはやっています。昔の日本は自分を決してほめない社会でしたから、その殻を破るためには、自分を意識してほめるということも必要です。けれども、自分を受け入れるというのは、自分をほめることではありません。
 
ほめるというのは、けなすのと同じ種類の行動です。それは価値判断が入っています。プラスの価値を与えるのが「ほめる」で、マイナスの価値を与えるのが「けなす」です。それは、どちらも価値判断を伴っているという点で、同じ種類の行為です。
 
「受け入れる」というのは、ほめることでもけなすことでもありません。それは、価値判断をしないことなのです。あらゆる価値判断をせず、ありのままをありのままに認めるのです。
 
実は、これはとても難しい行為です。私たちはあらゆることを、無意識のうちに価値判断するように習慣づけられているからです。私たちは、あらゆることに対して、無意識のうちに、よいか悪いか、好きか嫌いか、損か得か・・・と判断します。私たちはあらゆることにプラスの価値かマイナスの価値を与えます。中立ということがないのです。
 
中立は無価値ではありません。なぜなら、無価値というのは価値判断の一種だからです。それはゼロの価値だといえるでしょう。けれども、中立は価値がゼロだというわけではありません。中立とは、プラスでもマイナスでもゼロでもありません。中立とは、価値という尺度でものごとを見ないということなのです。
 
心の中に価値判断の尺度を持っていると、無意識のうちにそれが働きます。それによって他人のすること、世の中の出来事すべてを裁きます。そして、無意識のうちに、自分自身についても点数をつけます。そして、マイナスの点がついているところは、無意識の奥深く隠してしまいます。誰でも、自分の醜いところは見たくないからです。
 
けれども、心の奥深くしまいこんだ闇のエネルギーは、消えてなくなるわけではありません。闇の中から手を出して、その人のあらゆる行動に影響を及ぼします。その人は、自分の闇のエネルギーに気づきません。なぜなら無意識というのは、「気づかない」ということだからです。そして、気づかない間は、その闇のエネルギーに支配されます。
 
「自分を受け入れる」というのは、自分のよいところを探してほめることではありません。自分のよいところも悪いところもありのままに見る、ということです。けれども、これは、自分のよいところと悪いところを数え上げることではありません。ありのままにすべてを見て、しかも「よい」とか「悪い」とか判断をしないことなのです。
 
私は、昔、過去を振り返るのがきらいでした。過ぎ去ったことには興味がない、未来だけを見るのだ・・・とかっこよく威張っていました。けれども、それは、本当は自分の過去を受け入れることができなかっただけなのです。誰でも、いろいろな思い出を持っています。その中には、決して思い出したくないような惨めな思い出もあります。自分の弱さ、醜さを見せつけるような思い出を、誰でも、思い出したくはありません。私もかたくなにそういうものから目をそらしていました。
けれども、毎日瞑想をするようになってから3年ほどたったころ、心の中で何か大きな氷の塊のようなものが溶けて流れ出し、消えてゆくのを感じました。すると、そのあと、不思議に過去を思い出すことが苦にならなくなったのです。
今でも、思い出すとつらくなることはあります。また、すべてを思い出したわけでもありません。私の10歳以下の人生には、ところどころ空白の時間があります。ほとんど何も覚えていないのです。そういうところは、まだ、潜在意識の中に隠されたままなのかも知れません。けれども、私はもう、それを思い出すことを怖れてはいません。どのような過去があったとしても、それをよいとか悪いとか判断するのでなく、太陽が善人にも悪人にも隔てなく光を与えるように、よい過去にも悪い過去にも、光と愛を与えてあげればいいのです。
 
大事なことは、過去のあなたがどうであったか、ということではないのです。現在のあなたの心に愛が溢れていることが大事なのです。過去のあなたを無条件に受け入れてください。過去のあなたのすべてを、あれこれと責めたりほめたりせずに、ただ抱きしめて愛の光で包んでください。現在のあなたも、同じように、愛と光で包んであげてください。それができるようになると、ほかの人に対しても、その人がどんな姿を見せていようとも、無条件に愛と光で受け止めることができるようになります。
 
自分の惨めさを許せるようになれば、ほかの人が自分に何か攻撃的なことをしたとしても許せるようになります。人が攻撃してきたときに許せないのは、攻撃される自分の惨めさを許せないからなのです。断っておきますが、人の攻撃を許すということは、それを防がない、という意味ではありません。攻撃されるときには、防いだり、逃げたりしてください。けれども、自分の惨めさを許せるようになれば、どんな防衛措置を取ったとしても、心の中は平静であり、穏やかで、相手のすべてを許していることができるのです。
 
自分を受け入れるということは、自分の姿について一切の価値判断を捨てることです。それができるひとは、他人についても世界についても価値判断をしないでいることができます。そして、「価値判断せずにすべてを受け入れる」ことが、霊性への道なのです。

2005年12月1日

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