霊性入門講座

C21 心の汚れ


「心の汚れ」というと、ふつうは、利己的だとか、悪いことを考えているとか、欲望のとりこになっている、といったイメージが浮かびます。水が宗教的な意味で用いられる場合にも、それは人間の「罪」や「穢れ」を洗い流すものとされています。

けれども、これからお話しする「心の汚れ」は、そのような「罪」「穢れ」「悪」ではないということを、まず覚えてください。それはむしろ、私たちが地球という世界に生まれるための必要条件だったのです。私たちは、その「心の汚れ」を自分の心につくることによって、物質世界に入り込み、肉体となって地球に生まれ、そこでさまざまな人生を送ってきたのです。
 
けれども、もしあなたが霊性を取り戻したいと思うなら、この「汚れ」を取り除かなくてはなりません。それは、私たちの本来の姿である霊性の立場から見たときには、汚れであり、不必要なものだからです。その汚れを私たちの心にまとっているということがすなわち、私たちが霊性を失った、あるいは忘れた、ということと同じなのであり、その汚れを取り去りさえすれば、私たちは完全にもとの霊的存在に戻るのです。
 
それは、たとえて言えば、部屋の中を照らす電球の周りに絵の具で絵を描いたようなものです。私たちは美しい絵を描いたつもりですが、その結果として、電球の内部から出る光はさえぎられて暗くなり、部屋の中にも赤や青や黄色や黒のさまざまな色がついて、かえって汚くなってしまいました。けれども、絵の具によって電球が壊れたわけではありません。絵の具を洗い落としさえすれば、電球はまたもとの姿に戻り、部屋の中に美しい澄んだ光を輝かせることができるのです。
 
私たちの「心の汚れ」とは何でしょうか。
それは、私たちが物質世界や、私たち自身のありかたについて持っている、さまざまな固定観念のことです。私たちは、それを当然の事実であり真理であると考えていますが、実はそれが、私たちの霊的存在としての能力を制限し、地上の肉体人間という現実を作り出しているのです。
 
これから、その固定観念とはどんなものなのかということをお話ししていきますが、今回はもっとも根源的な固定観念を一つだけ、取り上げてみましょう。

それは、「人間は死ぬものである」という観念です。
 
「人はいつかは死ぬ」。私たちは誰でもそう思っています。「人は死ぬものである」というのは、論理学の三段論法の例題になるほど著名な事実です。もしこれを疑う人がいたら、頭がおかしいと思われるでしょう。
 
けれども、ほんとうは、人間は死にません。人間は決して死なない、というのが真実なのです。これには二つの意味があります。一つは、肉体が死んでも、人間が死ぬわけではないという意味です。もう一つは、心の奥深くに潜んでいる観念を取り除くことができたら、人間は肉体のままで死ななくなることもできる、という意味です。
 
初めのほうは簡単です。人間は昔から、魂というような言葉で、肉体の死後に生き残る何かを想像していました。直感的に知っていた、と言ってもいいと思います。最近は、物質科学の進歩によって、物質以外の何かが生き残るというようなことは考えられないという人が多くなっていますが、そのような人が信じるか信じないかは問題ではありません。信じていようといまいと、人間は肉体が死んだあとにも生きているのです。もちろん、肉体を離れた魂が体験する世界は、肉体を通して体験した物質世界とはかなり異なっていますが。
 
「人間は死ぬものである」という意識は、いずれ捨てなければなりません。肉体は死ぬかも知れませんが、それは人間の終わりではありません。「肉体は死ぬかも知れないが、それは、私の終わりではない」と考えてください。あなたには決して終わりはないのです。

永遠に生きている自分を想像し、その長い長い「人生」・・・・何千年も何万年も続く人生・・・・地球の上だけでなく、よその星で、よその銀河で、よその宇宙で過ごした数々の人生・・・・これから過ごす無限に多くの人生を想像してください。あなたは、そういう存在なのです。そのような、長い長い人生の一こまとして、いまの地球の上の人生があるのだ、という考えになじんでください。物事を見る目が少しずつ変わってくるでしょう。
 
もう一つの、肉体のままで永遠に生きるというほうは、もう少し複雑です。それは、単に肉体が長生きすればいいというものではないからです。私たちは、いま、男か女か、一つの身体を持っています。もし、いまのこの身体で永遠に生きなければならないとしたら、ちょっと不便ではないでしょうか。いま男である人は、時には女も体験してみたい、と思うかも知れません。いま女である人は、同じ女であっても、もう少し美人になって生きたいと思うかも知れません。

つまり、私たちは、肉体のままで長生きすることを漠然と望んでいますが、もしそれが本当になったら、実はそれは私たちの存在の仕方に対する制約になってしまうのです。したがって、私たちが自由に肉体を取り替えたり、いろいろな人々との社会的なつながりを自由に作り変えたりすることができるようになるまでは、あまり一つの身体に固執しないほうが得策です。

けれども、「肉体は必ず死ぬ」というのも、一つの固定観念の現れに過ぎない、ということだけは知っておいてください。

2005年6月1日

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